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言葉は分からない方がいい ——現地語が話せない外国人として生きる


ベトナム最大の都市ホーチミン。
急激な経済成長を栄養にして、日本では考えられないほどの高さと密度で高層マンションがぐんぐん伸びている。ベンツなどの高級車も日本よりずっと多く見かける。

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この街中を歩いていて思うのは、ここは私にとって、都会であると同時に自然でもあるということだ。
まるで賑やかな森、あるいはジャングルの中にいると錯覚することがある。

濁流のようなバイクの群れを、自動車が追い立てている。それは、肉食動物が草食動物を蹴散らす様に見える。行きかうクラクションは鳥の鳴き声みたいだ。
そして人の声も、まるで動物のように聞こえる。

それはつまり、「言語が耳に入らない」ということだ。
ベトナム語が分からない私にとって、声調の激しいこの言語はまるで歌のように聞こえる。それは自然の中に溶け込む動物の鳴き声に似ている。

でも、むしろ、動物の方は私の方なのかもしれない。だって、周りにいる人間のうちたった一人、言葉が分からないのだから。

■聞きたくないものを聞かず、読みたくないものを読まない

相変わらずベトナム・ホーチミンに住んでおり、もう2年になる。

ベトナム語が全然できるようにならない(というか、勉強せずにいる)理由は、「長く住むか分からないから」ということもあるが、「言語ができない方が便利だから」でもある。

(もし、便利さが不便さを上回るようなら必死でベトナム語を勉強しただろう。でも、少なくともホーチミンは、結構な場所で英語(場合によっては日本語)も使える。生活にはほとんど困らないのだ)

現地語が使えなくて便利なのは、第一に、聞きたくないもの、読みたくないものをスルーできることだ。
レストランで隣席から聞こえてくる愚痴や噂話、路上の言い争い、街中の看板広告、商品に書かれたおせっかいな注意書き、YouTube広告……それらが言語でなく、音や色でしかないこと。それにより、どれだけストレスを減じているか!

対して、日本にいた時のことを思い出す。
日本の電車は、吊り広告、おせっかいなアナウンス、最近はテレビまでついてしまって、言語刺激に過敏な私にとっては地獄だった。もし同じことを思う人がいたら海外に住んでみることをおすすめする。それほど、強制的に視界や聴覚に飛び込んでくる言語刺激の精神的な影響は、無視できないものだ。

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喫茶店で、よその会話が気にならないのもメリットだ。ベトナムの喫茶店は日本よりだいぶにぎやかだが、日本語の会話はめったに聞こえてこないので、それこそ賑やかな森かジャングルな落ち着きが得られる。

しかし、日本人が数万人暮らすと言われているホーチミンでは、時折、日本語が聞こえてがっかりすることもある。日本人街で買春の話をしているおじさん、自分の不注意でバイクに轢かれそうになったのに「横断歩道だろうが!!歩行者優先だろうが!!」と日本語で日本のルールをまくしたて、激怒していた老人……

こんな時は「日本語が聞こえなければよかった」と心底思う。そして逆に、今まで、異国暮らしの中でいかに聞きたくないものを聞かずに済んでいたかに気付く。

言語が分からない、ということは、動物でいられるということだ。人間脳の発動によるジャッジ(どちらがいいとか悪いとか)、ランク付け(こちらの方が高いとか安いとか)から離れられる。そして、色や音、まさに顔色や声色に集中できる。

■本当に必要なことだけを、ボディランゲージで言う

それから第二に、言語的に精度の高いコミュニケーションをしなくても許される点だ。

たとえば、カフェで注文する時、私は「1、コーヒー、あつい」みたいな、単語を並べただけの、かなり雑なベトナム語しか使えない。ネイティブであればかなりつっけんどんな言い方に聞こえるだろうが、私はこの国では外国人だし、ベトナム人は自国の言語を話す外国人にかなり優しいので、そんな言い方でも許される。まるで、自分が「言葉がちょっとだけ話せる猫」になった気分だ。まあ猫なので追い立てられることもまれにあるのだが、おおむね好意的に見てもらえる。

ちなみに、店員さんと英語を話すこともよくあるが、非ネイティブ同士で、お互いの精度の悪い英語を許せる。私は敬語を使ってもらわなくてももちろん怒らないし、むしろゆっくり、単語だけを言うほうが、非ネイティブ同士の会話の場合、通じやすいのだ。その分、笑顔とか身振り手振りでカバーする感じだ。

それこそ本来的なコミュニケーションという感じがする。おしきせの過剰敬語より、必要最低限な分、よっぽどていねいに言語が使えている気がする。

■言葉が下手な方がかわいがってもらえる

わたしはベトナム人に日本語を教えている。教えている身でアレなのだが、「外国人の日本語はちょっとたどたどしいぐらいが可愛い」から「正直、そこまでうまくならないでくれ」と思っている。

彼らの日本語が下手だから、話してくれるだけで嬉しく思うし、何かと世話を焼きたくなる(ちょうど、私がたどたどしいベトナム語を話すと喜んでくれるベトナム人のように)。

しかしそんなこと露知らぬ学習者たちは「敬語をマスターしたい」とか「日本人並みに話せるようになりたい」とか考える。でも、そんなことをしたら、せっかく文化の外部にいる特権が失われてしまうじゃないか。
つまり、失礼なことを言っても許されるし、マナーを知らなくても優しく教えてもらえるという特権。話すだけでかわいがってもらえるという特権。「ちょっと言葉を話せる猫」でいられる特権。

ベトナムで私に日本語を教わったのち日本に渡り、働き始めた学生が何人かいる。もし私が日本に戻って彼らに再会して、日本語がすごくうまくなっていたらどう思うだろうか、と考える。なんだか日本人みたいになっちゃってがっかり、と思ってしまう気がする。少なくとも「かわいくなくなっちゃったな」とは思うだろう。

■現地語がうまくなったら得るもの、失うもの

しかし逆にいうと、彼らは日本に本気なんだろうなと思う。特権を失ってもいい、むしろ「失礼なことをしたら叱られたい」「マナーを知っていて当然と思われたい」つまり、日本文化にちゃんと入り込みたいのだろう。当然だ、日本に憧れ、母語とは大きく異なる言語体系の日本語を諦めず学び、日本に渡り、数年から数十年、場合によっては定年まで帰る気はない若者なのだから。だとしたら、ずっと猫でいるのも辛いということだろう。

逆に、彼らの日本語熱に比べて、そこまでベトナムに入れ込んでいない私が、猫でいたがるのは当然だと思う。

これ以上私がベトナムの中に深く分け入っていくためには、言語が必須だ。あと何年住んでも言語が出来ないならこれ以上理解は深まらないだろうなと思っている。(猫としてはもう歩き尽くした感がある)

しかしはっきり言って、言語は「コスパの悪い勉強」だと思っているので、相当のベトナム好きだったり、長年定住する覚悟がある人しか、ベトナム語は成就しないだろうなとも思っている。

私が、愚痴や噂話、路上の勧誘や喧嘩、おせっかいな看板も解読したいというほど、ベトナムに興味をもつことはないだろう。というか、日本を含め、あらゆるコミュニティに対してそう思うことはないだろう。それは、ずっと居候で居続けたい、このコミュニティに政治的にかかわりたくない、他者の面倒なところを引き受けたくない、という甘えでもあるし、母国が盤石である人間の甘えでもあるだろう。(母国がなかったり、曖昧だったり、あるけど帰れない人なら、必死にその地の現地語を学ぶだろうから。)

しかし私はむしろ外界には、なるべく言語のない世界、にぎやかな森のような世界を求めている(頭の中と家の中には十分すぎるほど言語が溢れているから)。

外国に暮らしていると、時々、たまたま聞こえてきた日本語すら、音に聞こえることがある。

その日本語の響きは、外国人が日本語を聞く時の響きなんだろうなあと思う。地味で質素。色にたとえると茶色。日本家屋の木材の色。醤油やだしや、味噌の色。

料理や建築に日本風があるように、音にも日本風があるのだろうか。


本当は、日本だって音のジャングルだ。いつでもそこに立ち返るようになれば、日本でだって、まるで猫のように暮らせるのに。



渋澤怜(@RayShibusawa

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