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あなたがだらだらインターネットしてしまうのは日常の風景がインターネットより面白くないから

日本語が読めちゃう聞けちゃう話せちゃう日本がつまんない、超絶イージーモード。バス乗るだけでも大冒険だったスペインが恋しい、カフェオレと激甘のスペインチョコのコンビをキメながらスペインシックになってる(しかし毎日25km歩いてた日々ならいくら食っても太らなかったけど、日本でこんな嗜好は続けられないな)。スペインのカフェオレ(カフェ・コン・レチェ。スペイン語でレチェは牛乳)は、エスプレッソを牛乳で割ってるらしく。どこで飲んでも超濃くて美味しかった。


自動販売機では、ジュースやお菓子に交じってコンドームとオナホが売ってた。スーパーでは、食品のすぐ隣に洗剤や芳香剤の棚があるから、いろんな匂いが交じって臭くてたまらなかった。スペインのタバコのパッケージには政府がタバコの害悪を訴える非常にショッキングな絵が描いてあり、しかしどこか退廃的でアーティスティックでもあった。

大聖堂の中で一番心に残っているのは、キリスト像の裏に上る石階段が、人の多く通るところだけ驚くほどすり減って、つるつる輝いてたこと。

こういうことは、見知らぬ場所に飛び込むときに「わあ目新しいなあ」「すごいなあ」「怖いなあ」と思う前にガイドの解説が耳に入っちゃう、旗についてくだけの観光客は、絶対に気付かないこと。

本当は、日本でだって、常にこの目線をもって歩いていたい。常に「目新しいなあ」と思っていたい。常に観光客でいたい。

歩いていて、日本語が、音で聞こえることがある。それはスペインでスペイン語が音で聞こえたのと同じように。意味は分からなくても、韓国語は韓国語、フランス語はフランス語、スペイン語はスペイン語と分かる。それは音を聞いてるから。

ヨーロッパ人が意気投合して速すぎる英語で喋りだして、置いてかれた時は、まるで大人の会話に加わった子どもみたいな気分で、それはそれで悪くなかった。

ミサの最中、スペイン語の長ったらしい説教にも退屈しなかったのは、音を聞いていたから。カミーノとアーメンしか聞き取れなかったけど、ああすっかり私たちの日常語になったカミーノはしかし、そもそも宗教的な意味を持つ言葉だったんだよな、たぶん神が道を示してくれるとかそういう話をしてるんだろうな、と思いながら、あの(私にとって)オリエンタルな響きを聞いてた。

洋画に日本人が現れて、基本英語を喋ってるんだけど突如日本人同士で日本語を喋りだした時、日本語が「音」に聞こえることがありませんか。あの瞬間、非日本語話者が感じる日本語の「オリエンタル」な音を、私たちも聞いてる。

帰国後、インターネットばかりしてしまう。と言っても何かを調べるわけじゃなくて、ひたすらツイッターのタイムラインを引っ張ったり、LINEしたり、ライヴ告知を作成してるだけ。

油断すると、インターネットは世界を広げる道具じゃなくて、日常のつまらなさをより濃くなめつくすだけの道具になってしまう。プリンを食べ終わった後に物足りなくて、プリンのふたを舐めつくすように。

さみしさを埋めようとしてインターネットしてよりさみしくなるのはこの仕組み。

あきらかに色味が違うスペインと日本。

緑豊かな我が祖国に帰ってきて初めて喋った母国語は、空港での「すいません」とか「ありがとうございます」とか「袋いいです」とかだった。

2週間空いたとは思えないほどのなめらかさだった。そこで逆説的に、普段いかにこれらの言葉を適当に、自動運転で吐いてるのかが分かった。

全ての言葉を、生まれて初めて言うように言いたい。スペイン語の「ありがとう」(グラーシアス)がなかなか覚えられなくて、最後まで(えっと、ありがとうって何て言うんだっけ)と思ってから発していた。そんなたどたどしさや遅さは感謝の念が心から湧き立つ速度と呼応するのだ


人間は99%、どうでもいい話をしている。母国語で、どうでもいい話を、魂の抜けた自動運転で話してる。

どうでもいい話なんかしたくない。そんなんでなめらかになる人間関係なんか一切なめらかにしなくていい、一生ぎすぎすのままでいい。

そして、どうせぎすぎすしてるなら、思いっきり摩擦力の高い言葉でもって、のこぎりみたいにギシギシ、あなたの心を削ってやる。

ふはは諸刃の剣さ、痛み分け。

11/24きてね

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