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からだとはなす


昨日とまるで同じような景色が流れて行く日々はぬるくて、あたたかくて、いつまでもこれが続いて行くと疑う余地がなかった。怖い夢なんか見ないで朝、暖かいお布団で目が覚めるということがどのくらい幸せなのかはまったく考えもせずにいたし、
そんな私は殆どロボットのようだったと思う。たとえばタイマーをセットされたストーブとか炊飯器のように。誰かにインプットされた手順で歯を磨いたり、顔を洗ったり、化粧をしたり、同じような朝ごはんを食べたり、皿を洗ったりしていた。前髪が伸びて自分の瞳が少し見えづらくなっていても鏡の中の自分はあまり気にしてなかった。ビューラーでまつ毛をあげて社会に向かった。これ以上でもこれ以下でもない、これが自分だとどこかで呑気だったと思う。

それからいつもの通勤コース。脳は停止していても車は道を走っていく。赤や黄色や青なんかの信号を通り抜け職場についた。それでその日に出会うお客さんのおかげで少しずつ一日に色が付いていたんだ。わたしはやっぱり、人に会って明るくなったり暗くなったり。人に会って軽くなったり重くなったり。人にあってこそ喜んで生きていたのだろう。誰にも会わない毎日は、幸も不幸もなくなっていくのかもしれない。

というのも実はここ最近、インフルエンザの後に胃腸炎になってしまい夜通しゲロを吐いたりしていた。なんだかもう、紙の一枚でスッと指先を切ってしまってもどおってことないくらい痛みには慣れてきて。普通に生きていくことがとても難しくて、息をすることや眠ることがやっとになり、ロボットのような毎日を懐かしく思ったんだ。

ただ。
こんな景色にも心配はいらないのだろうと心のどこかは知っている。焦らずに自分を大切にしていればきっといつかご飯を食べられるようになったり、よく眠れるようになったり、お風呂に入れるようになったりするものだ。そうしてこんな苦しみもカケラを感じさせないくらい笑ったり無かったことになる。人間ていうのはとても愚かで性能が良いからこそ、痛みはすぐ蓋をされて誤魔化されていくのだろう。

それはさておき。日々をこうしてやっとの思いで生きている時。人には大きな悲しみと、小さな悲しみと、大きな喜びと小さな喜びみたいなものが、早いか遅いかのバランスでちゃんと同じくらい分けられるものだなぁと。そういうことを思い出す。当たり前だけど本当はどんな時期も素晴らしい。あの頃も、この頃も、寂しかったり不幸なわけじゃない。ちゃんと意味があったり、明日につながっている。歳をとるとそういうのが本当にわかってくるよ。


あともう少し元気になって、仕事に行けたら。

いつもの道を通って、家に帰る。するとまたいつもと同じようなご飯を作り、風呂に入れば当たり前のように髪を洗い、「あれ?シャンプーしたっけ?」なんて、わからなくなってしまうことも、歯磨き粉が終わりそうなことも曖昧になるのだろう。ロボットのように戻ったわたしはドライヤーが少し熱めで、じんわりと汗をかくところで季節が少し進んでいたことを知るんだ。いつでも時は進んでいる。今がどの辺でどんな時でも、ちゃんと素晴らしいって忘れてしまうけど。何度でも思い出して生きられたらいいな。

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