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【連載小説】波間を凝らす #03

白石ケン至

 先ほどの高波とは打って変わった穏やかな海面を漂いながら、ルタイは周囲の傾き、沈みかけている乗用船に向かって声をかけ続けた。同じ海洋民族であるが故に海に投げ出されることに関しては大きな問題に感じてはいないのだが、台風でもないこの状況でこれだけの船が転覆していることが大きなショックだった。怪我をしている者がいるかもしれない。大丈夫かと安否確認をし続けることに意識が集中していて忘れかけていたが、彼自身も口を切り未だ出血が止まっていないことが口内の鉄混じりのような風味が訴えかけてくる。
 穏やかな潮風に乗ってまだ、あの爆風の前に漂っていた化学的な匂いが南から届いている。何かが焼けたような焦げ臭さを伴って。
 その南の水平線の向こう、明らかに職場である魚卵工場の辺りにここからでもはっきりと黒煙が高く登っているのが観て取れる。甲板上でタバコを咥えながら、時折海面に血液混じりの唾を吐き出しながらその煙を見つめていると、チェックポイントから海洋軍の魚雷艇がこちらにサイレンを鳴らしながらゆっくりと近づいてくるのが目に入った。
 魚雷艇の舳先にライフルを構えた兵士が三人立っているのが分かった。徐々に速度を落としながらこちらに近づくとマストに設置された拡声器から

「皆さん大丈夫ですか。怪我をされた方はおられますか」

などと声をかけ始める。
 怪我をした者が声を上げることも困難なのだろうが、そんなことはお構いなくまるでテープで流れている音声のように同じことを繰り返し続けていることに適当さが滲んでいる。そしてルタイのすぐ近くに近づくと手に持った小型の拡声器で直接声をかけてきた。

「マヤダ・ルタイさんですね。船は動きそうですか。登録ナンバーから魚卵工場で働いている方だと思われますが」

 声を掛けられ、ルタイはエンジンを始動させてみる。甲板に流れ込んだ海水が機動部に流れ込んだ影響が心配だったが問題なくいつも通りの音と共にエンジンは掛かった。このオンボロ軽の案外の丈夫さに正直驚いていると目の前の魚雷艇から声が届いた。

「マヤダさん。このまま魚卵工場へ向かってください。非常事態が発令されました」

防弾ベストやらゴーグルやら物騒な装備に身を包んでいて気づかなかったがよく見れば自分に声をかけている兵士は毎日の通勤の朝に眠そうにチェックポイントで欠伸をしている男だった。そのことに気づきやや気を許したルタイが声を返す。

「一体何があったんですか。さっきの波は爆発で生じた高波ですよね。海面予想が全くなかったから」

船室の中からもう一人の兵士が現れこちらに近づき声を掛けてきた。驚いた、もう一人の彼は大陸軍の兵士だった。海洋軍の船舶に海洋軍の兵士なら分かるが大陸軍の兵士となるとこれはつまり軍同士の問題ではないということだ。両軍が協力体制となるとこれは別の脅威が発生しているということだ。ここ数年のニュースで何度も報じられている「あれ」が起こったのだろうか。
 大陸軍の兵士も同様ライフルを背負っているが、彼らが持つライフルには銃口とは別に銛を発射できるランチャーが銃身に備えられていて、トリガーを絞るとその銛が飛び出すのだ。それに気づきルタイは慄いていた。大陸軍は我々海洋民族が弾丸よりも銛を恐れることを太古から知っている。海洋民族を威嚇するのに銛や網が有効だということを奴らは常識としている。肩下の部隊章には七輪と呼ばれる炭の上で魚を焼く下品なイラストが刺繍されている。勝手下品と言っても彼らが今乗船している海洋軍の魚雷艇にはデカデカとサルを丸太に縛りつけ丸焼きにする部隊章の旗がはためいているのだからお互い様なのだが。
 大陸軍の兵士も同様、時折朝チェックポイントで見かける兵士だった。肩のワッペンから少尉だということが分かる。若いのに案外偉かったんだな、こいつらは。そうルタイが声を出さずに睨んでいると、いつものボケた顔とは違う鋭い眼差しで少尉が説明を始めた。

「マヤダさん。急いで貰いたいので手短に伝えます。魚卵工場で騒乱が起こりました。知っているかと思いますが、騒乱が起きた施設の全従業員は一旦当局の指示にしたがってもらうことになります。今出ている指示は現場に全員が集結することとなっています。このまま魚卵工場へ向かってください。船は動きそうですか? 」

 なんてことだ、切れた下唇を噛みながらルタイは動揺していた。まさか自分の職場でも騒乱が起きるとは。ということはそれはあいつらが起こしたということだ。なんてこった。
 
 海洋民族に限ったことではなかった。大陸民族も含め人口減少に歯止めがかからないことは大きな問題になっていたのだ。先々の労働力の低下の解消のために政府はここ5年ほどをかけて海外からの労働者を集め、斡旋し続けていた。ルタイが働く魚卵工場も同様だった。そもそも過酷な労働環境で有名な魚卵工場だったのもあり、求人をしても滅多に応募は無く、慢性的な労働者不足だったところに海外からの安い給与で働く体力のある若者を人材として雇えるということで一気に現場には片言と全く理解できない言語が飛び交っていったのだった。
 彼の職場には主に大陸の南部、ヌアム国の色黒の10代後半から30代前半の若者が派遣されてきていた。
 同様に全国の成り手のない現場に多国からの若い労働者が増えたと比例して増えたのが騒乱だった。彼らが団結し職場に反旗を翻すのだ。だが、彼らがそれを行なったとて間違いなく警察や軍によって制圧されることはわかっているはずなのに、彼らは群れ一気に怒りを爆発させ暴力という形で騒乱を起こしてしまう。後先を考えるということができないのだ。
 ルタイが現場に入った数年前にはすでにかなりの人数のヌアム人の若者がいたが、彼はその野蛮さが大嫌いだったし、今も嫌悪している。現場の大きな騒音に負けぬよう彼らは密林の樹上で奇声や怒号を交わし続けるサルの群れそのものだ。
 かつて離婚する前、幼い息子を連れ大陸の動物園という施設を何度も訪れたが、その際檻越しに見た「吠えザル」という野蛮な動物を想起し彼は奴等をそう呼んでいた。もちろん声には出さないが。

「マヤダさん? 」

 兵士の呼びかけに我に返りルタイは生返事で答えすぐに工場へ向かうと告げ操舵輪を回し始めた。気づくと周囲の沈んでいない多くの船が同様工場に向けて舳先を回していることが観て取れる。
 いつもの朝だったのに。いつも通りの出勤の朝だったのにこうして想像もできないことは突如目の前に勝手飛び込んでくるものだ。そしてその目の前のハードルを出来うる限りで乗り越えてみることしか今は出来ないのだということを知らされる。
 
 いつもと違う潮の流れだが、魚卵工場に向かうことは簡単だ。
 何せ今常にそこから狼煙のような黒煙が合図のように立ち上っているのだから。ゆっくりとついさっきのあの高波が嘘のような海面を職場の方向に船を走らせていると、徐々に口の中の血生臭い風味にが立ち上ってきた。再び海面に赤い唾を吐き飛ばしながら、その血の赤さが海水に混じればその瞬間だけは、そこはピンクに染まるのだろうかなどとよく分からない想像をしつつ。
 床に散らばったオキアミガムを一つつまむ。口に入れようとし、それを躊躇したのはガムの風味がこの口内の風味に混じることが憚られただからなのか、どうか。
 ルタイは咥えたタバコに火を入れる。

 強烈な経験したことのない匂いが工場の方角から漂い始めると、徐々に涙腺が滲んで来た。涙が、玉ねぎを刻んだかのような、大陸からの高級野菜であるそれを刻むと沁みるその目の痛みを想起しながら、それが初めての催涙ガスの目の痛みなのだとルタイは知ったのだった。

「なんでこんなことになったんだ」

 見上げる想像を超えたその光景が近づくにつれ自然と口癖のような言葉が付いて出た。

→ #04 へ続きます。

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