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【連載小説】波間を凝らす #04

白石ケン至

 チェックポイントからいつもの職場に向かう海流路に無数の乗用船が連なる渋滞の進む遅さに嫌気が差し始めていた。この渋滞列の全てが魚卵工場の勤務者なのだろう。あの波を越えた者という前提だが。
 ただ、ゆっくりと進むことではっきりと周囲の環境あらゆると言っても言い過ぎではない異常を五感全てでもって否応なしに体験する長い時間にあった。
 午前の空の蒼を反射させることなく海面は魚卵工場に近づくに連れ濁りが濃くなっている。その本来であれば快晴の空が広がる上空を工場付近から立ち昇る真っ黒な煙が覆い、風に乗りそれは周囲に広がり続け、かなりの範囲の空を曇天のように霞ませていることがより海面の鈍い色を際立たせていることもあるだろう。風や波こそ穏やかで静かなのだが、その静けさが更にその異常な光景を演出するかのようだ。操舵輪の向こうのソナーのモニターポケットからタバコのパッケージを掴みだし、荒波を越えた際に海水で濡れてしまっていないかを確認し、開封し一本を咥え火を入れ一息煙を吐き出した瞬間だった。

「おぅい、マヤダさん! 」

 聞き覚えのある掠れ声のする5時の方角を振り返ると、その叫び声の主は想像通りキッサさんだった。キッサのおっさんは倒産で閉鎖された隣海域市の魚卵工場から移ってきた60過ぎのパートだ。身体の小ささを感じさせない力強さと些か調子の良い性格の男なのだが、ヘビースモーカーということで喫煙所で時折言葉を交わす関係だった。

「おぉ! キッサさん。あの波大丈夫だったんですね。」
「あたりまえよ! オレの船は外洋向けにエンジン弄ってるからな、あれくらいの波越えるのなんて慣れっこよ。それより見ろよ」

そう言いながらキッサさんが周囲の濁った海面を指差すのを目にし、ルタイは言われるがままに大陸民のスープ、味噌汁のような色味の海を凝視する。

「うわぁ、なんてこった・・・。」

 濁った海面のわずか下の水中を無数の魚群が蠢いているのが見てとれた。その数にも驚いたが、問題は魚種だ。この海域にこの季節に泳いでいるはずがない奴らが群れている。ルタイはすぐに理解した。こいつらは工場の養殖採卵生簀から逃げ出した魚どもだ。生簀が破壊されたことが見て取れキッサのオッサンの方を見ると咥えタバコで甲板から小さな投網を投げている小さな男が目に入った。バカなオヤジだ。声をかけるのも馬鹿馬鹿しくなり炎と黒煙を見上げトロトロと進む船を操ることに集中し、懸念する。
 となると、これはまずいな。
 ルタイが懸念したのは、イケスから逃げ出した採卵魚だ。採卵魚はその卵を効率良く産卵するよう遺伝子組み替えがされている。わずか数年前まではその遺伝子組み換えそのものが社会問題として世間を賑わせ、魚卵工場で大量採卵された卵は食わないと言った風潮が確かにあったのだが、結局大量に安定した採卵は卵相場の安定に繋がり、市場価格も下がったことで世間は誰も文句を口にしない風潮が優ったのだ。あの、批判の波はなんだったのか、家庭料理に於いても外食に於いても、結局ほぼ100%の卵が遺伝子組み換え魚類からの卵になったのだ。
 だが、膨大なその養殖施設の管理に関しては国からの厳しいルールが適用され、特に施設外への組み替え魚類の”脱走”に関しては絶対にあってはならないとされている。生態系への影響ももちろんだが、実際は運営する企業と国内外の国家機関との密約で養殖が禁止されている魚類の繁殖をも担っている国家機密事業もなされているのが実情だったからだ。
 そしてその中には生物兵器としての魚類の研究開発なども含まれている。
 
 ルタイが見つめる海面すぐ下を色鮮やかな南海洋のイワシの群れが逃げ惑い、それを野生のアシカだろうか、海獣の群れが追っているのが濁った水面直下で繰り広げられている。何もかもが手遅れなのだろう。他にも密かに遺伝子操作で生み出された小型化されたコククジラの人工新種が尾鰭をあげ沈んでいくのが見て取れる。

「ふはっ! 終わりだな。ここは」

思わず自然に笑いが起きていた。いつかこんなことが起きてくれないかと。待っていたのだとルタイは気づき始めていた。こんなクソみたいな労働環境が勝手にぶっつぶれている。最高だな。
 
 徐々に工場に近づくに連れ、ルタイの目は催涙ガスの痛みに目を常時開けていられなくなっていた。周囲の船も同じように時折停船し、顔を押さえている者が増えてきた。そして更に周囲を霞が覆うように煙が充満し始め、静かで幻想的とも言えよう景色がそこには広がり始めた。
 
 目だけではない、鼻や口、喉から耳、頬までもがヒリヒリとし始めた。マスタードのような鎮圧用のガスだろうか。よだれと鼻水、涙が止まらず、呻き声があちこちから上がり始める。

 海から立ち昇る竜のような巨人のようなモクモクとまるで固体のように映る真っ黒な煙の柱を見上げ、霧の中のような周囲の空気と煙を通過する光の束が生み出すステージのような演出に包まれる。見上げた空に無数のドローンが飛び交っているのが見て取れる。民間、軍用様々なようだ。
 濁った海面の上を時折見たこともない種類の生物が跳ねる。その緩やかに揺れる波間に徐々に炎が立ち上り始めた。それはどこか見たことのない想像上の宗教儀式の会場のような荘厳で幻想的な。
 そしてゆっくりと進む乗用船の列は気づくと炎の柱の林の中にあった。
 海面の油かそれともナパームに使われるような引火剤か何かだろうか、それらに引火した炎、破壊された建造物の瓦礫だろうか、波に流されているそれらが放つやはり炎とパチっと心地良い音、音。
 ルタイ含めた乗用船の操縦者が自らの顔中に広がったその痛みに耐えられなくなった瞬間だった。
 
 火柱の林が左右に割れた。まるでどこかの国の神話の物語のように。水面上の炎の柱の群れが渋滞の先で左右に別れ、そこに蛇行する水路が見えている。
「どういうことだ」
呟き周囲を見渡すとやはり他の者も一様に操舵室から顔を出し、甲板に立ち、自らが進めている船の舳先の向こうに続く渋滞が吸い込まれていく奇跡のような水路をタオルや手で顔を押さえながら見つめている。
 徐々にその水路に近づくことでその「仕組み」が見えてくると状況は案外と簡単な仕組みで出来上がっていることに気づかされた。
 炎の林が左右に分かれた地点からその海面にはオイルフェンスが張られていたのだ。海洋軍が敷設した数キロに及ぶ強靭なチューブ状の不燃素材のフェンスには規則正しく等間隔で"浮き"のような物体が付着しており、そこから霧状のガスが噴出している。きっと消火剤の一種なのだろう。それによりフェンスの内側には炎は見当たらず、水路が立ち現れたということだ。
 そして水路の入り口には大陸、海洋軍それぞれの小型船が待機し、乗用船の列に簡易式のゴーグル付き防毒マスクが配布していた。彼ら自身は見た目にもかなり高性能であろう頭全体を覆うマスクを被っている。どこか他の星からの存在のように映る彼らの表情は当然窺い知れない。
 マスクを受け取りすぐにルタイは着用する。海洋民は滅多に着用しないシュノーケルや足ヒレから漂うようなゴム臭が強烈だが、外気のガス状況に比べれられるものではない。待ってましたとばかりに深呼吸をしながら、ルタイはここが毎日の通勤水路であることをやっと思い出していた。
 消化剤の膜の効果だろう、周囲の炎の熱がここまでほとんど届いていない。時折近くの瓦礫が破裂した音に驚くことはあったが、船の列は確実に魚卵工場"であった”場所へと進んでいた。
 周囲の焦海の凄まじさは増すばかりだった。ゴーグルを通しその地獄のような光景を眺めながら、ルタイの鼓動は増していくような感覚だった。

 ワクワクしていた。オレは。オレは待っていたんだ、こうして何もかもが吹き飛んでくれることを。

→ #05 へ続きます。
 

 


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