見出し画像

全てを記録する仏 大威徳明王⑱

リーディングマスター・まさみちです。見えないものを読み取る上で、アカシックレコード(全ての出来事が記録されている書庫)領域へのアクセスをしています。そこから得られる情報を紐解くと、現在の認知の歪みを正すことが出来て有益です。簡単に例えるなら、ネットにアクセスして必要な情報を取ってくるイメージです。何か物作りしたいとき、ネット検索すれば情報が得られ、それで問題が解決することが多分にあるように、アカシックレコードにアクセスすれば心的ストレス障害も改善することが可能です。リーディングとは、そんなイメージのものです。(35/88)

東寺・立体曼荼羅について一体一体紐解いております。

これまでの記事も読んでいただけると、仏像に込められた情報を拾い出す作業を「リーディング」の能力で取り組んでいますが、仏像との対話は、まさにリーディングするやり取りそのものです。

このリーディング仏との対話は、質問する自分がポジティブな精神状態であること、質問される仏となる自分もポジティブな精神状態にあること、そして質問内容がポジティブであり、得られる解答もポジティブに帰結する条件下で成立するものです。故に、嫌疑的な人が作った規律に強制的に従わせる目的で関わる思いは、自然の摂理から大きく反れるものとなり、ネガティブな関わりでの検証作業は成立しないことを指します。

同一環境における再現可能性という科学的見知を伝えたいと思うものですが、本人にしか解らないものは、他者が認知出来ず、再現できていなければ信憑性に欠けてしまうのも仕方のないものです。弘法大師空海の偉業を、同レベルで確認することが出来なければ、それは信憑性が伴わないものです。仮に同レベルで確認出来たところで、そのレベルを認知できる検証可能な立場の人が現れなければ同じ事(信憑性はやはり伴わないもの)になるものです。

そういうものを扱っていると承知して、記事にしております。

記事を読まれ疑問が在れば、幾らでもコメント欄に質問を残していただけると嬉しく思います。それも、ポジティブで計測されるレベルであることを望みたいものです。(礼節を大事にしなければ、対人コミュニケーションでは不動明王とする自身の心が自分を許さぬ働きをして、我が身を苦しめてしまうことがあることを明記します)

アカシックレコード(アカーシャ、アカシアの記録)について、仏教の中でも説かれているものがあります。Wikipediaには、浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ、じょうはりきょう)とは、閻魔が亡者を裁くとき、善悪の見きわめに使用する地獄に存在するとされる鏡であるとされ、この鏡の存在がアカシックレコードと同じものです。

真実と虚偽(嘘)は、キネシオロジー(筋肉反射反応)テストで簡単に識別できる為、善悪の見きわめは可能です。ただ、キネシオロジーは仏教では阿吽で表現することが出来、悟りを開くと(レベルにも寄りますが)、会話の中に嘘がどれだけ含まれているか、全て明らかに出来るものです。

デイビッド・フォーキング博士の著書である、「パワーか、フォースか」では、200レベル以上をパワーと識別し、それ以下をフォースと識別するものです。

悟りを開くとフォースのレベルを全て解体することが可能となり、全てをポジティブに転換する道を開くことが出来ます。ネガティブをそのままネガティブに留まらせる事などなく、ポジティブに救い上げる方法が存在します。

200レベル以下のフォース(弱くなる力)は、存在するが存在しないもの(矛盾を含むひょげんをするしかないもの)である為、愛に目覚め、気づきをもたらすと200以下に留まることが出来なくなり、全ての領域においてポジティブなパワーだけに変えることが出来ます。自身の中からネガティブな想念を消し去ることが可能なのです。これは「嘘」を消し去るもので、過去・現在・未来において「嘘」が存在しないことが悟りである為、わかる人(悟りを開いた人)からなら、全てを見透している状態にある為、誤魔化しが通用しないことを伝えるものです。

アカシックレコードを必要とするのは、問題となる精神の領域、座標がその場所にある為、その領域にアクセスして改善しなければ変わらないからアクセスするだけのことです。物理的だと捉えればよく、現在に起きている心の苦しみの発生場所は明確に記されているので、それを無条件に信じればその箇所に飛び、情報を拾い出せるものです。ここに懐疑的なネガティブな想念があると読み間違えることなどが発生し、過去世を知らされてもしっくりこないことがあります。精度の高さや精密さは、カウンセリングする者や、真言密教徒の資質に寄る為、教えて身につけられることに限りがあり、当人のセンスが問われることになるものです。

リーディングすることや、仏との対話を突き詰めていくと、常に未知なる課題しか体験しないものだと理解出来るようになります。人との関わりにおいて、記憶した情報で対応するには間に合わなくなり、今の問い、今リーディングして答えるというレベルに入ることになります。この状態に、暗記術や色んなセラピーの手法は意味を成さなくなり、未体験であるから体験している状態に突入するようになります。常に変革と成長を求められ、それに答えなければ目の前の課題をクリア出来ないものになります。経験しながら、その経験の全てが役立たないレベルで日々生きることが「悟り」です。

リーディングにおいても、仏の対話においても、天レベルか、明王レベルか、菩薩レベルか、如来レベルかという課題があり、取り組むなら如来レベルであることですし、辿り着く大日如来レベルから対話を試みる姿勢がなければ、他の仏との対話もままならないものだと伝えるものです。

大日如来の分身が、他の二十体の仏です。ここから考える方法として、大日如来が自分自身であるなら、家族から友人や上司や部下、近所の人たち、知らない人に至るまで全てが自分の分身、化身であることが想像出来ます。

他者を大日如来の化身として想像する余裕があるなら、どうしてその人がネガティブな対応を自分に向けるのか? と問いかけることで、悪く見える姿も、その本質である善く見る方法を見つけ出す学びのものだと理解出来るようになっていきます。未熟な者が、成熟するには未熟と向き合う必要があります。自分が叩かれて育つと、人を叩いて育てる発想しか持てないものですが、叩いて他人は言うことは聴いてくれません。相手の不足していることを補うことを提供するなど喜ばせると、話を聞いてくれたり、指示に従う気持ちに変わるものです。

夜叉(エゴ)だと、何も聴いてくれないものの、無償で欲しいものを与えれば話を聞いてくれます。
だと、困っている問題の全てを肩代わりすると、話を聞いてくれます。
明王だと、どこまでも連れ添って問題解決に取り組み、解決に至る中で話を聞いてくれます。
菩薩だと、出来ないことを出来るように育て、解らないことでも解るまで関わってくれ、関係を断ち切らず関わり続ける中で話を聞いてくれます。
如来だと、夜叉には無償で与え天には負担を背負い明王には共に歩き菩薩には見えなくても側にいて離れることなく見守り如来には全てを打ち明け合うことで支え合う中で話を聞いてくれます。

人の心の中に夜叉(エゴ)も、天も、明王も、菩薩も、如来も最初から全て存在しているものの、その感覚などが理解出来ず「不快にさせる相手が悪い」という概念から抜け出せないでいる理屈があります。話を最後まで聞き、生い立ちを遡り、時には過去世に至るまで遡ることが出来れば、「そんな事情があるなら、説明しても出来ないのは当たり前だ」という理解に至ると、人の心は穏やかになるものです。

これは、どれも「知らないこと」で引き起こされる問題です。「知らない」から想像し、妄想し、決めつけ、推論の中で裁き、断罪にいたります。
夜叉(エゴ)なら、暴力に訴えます。
なら、暴言に訴えます。
明王なら、無言(心の中で敵意を飛ばす)の圧に訴えます。
菩薩なら、改善論に訴えます。
如来なら、全てを理解し終えて無に還します。
結論を示すなら、解決する如来の力がなければ問題そのものを消失させることは出来ない為、菩薩の改善論では救い出せない問題が残り続けるのです。これが理解されない問題であり、「悟る必要性があるのか?」という疑問に対して「ある」としか言いようのない結論があるのです。

「過去・現在・未来」という時間軸が「ない」もので、あるのは「今」だけという事実が真実であるなら、「改善を試みる」という時間の存在を裏付ける発想では、到達不可能な世界にしかならず、どこまでも幻想を追い続ける輪廻のサイクルから抜け出せない問題を抱えるのです。

これは終わらせなければならないものです。

大威徳明王⑱
物事を突き詰めて考える力が人の心にはあるものです。計算を駆使して、様々な方程式や法則を考え、それを組み合わせて建造物から商品開発までしているものです。スマホから宇宙開発まで、その精密さは素晴らしいものです。その物的対象が人の方へと向かうなら、心そのものを観察したり、またそれを伝承することは不得意と感じるものです(私の主観です)。これだけ科学が発達し、精神科学や、心理療法が開発されてきた中で、大日如来とする悟りの境地を一般化どころか、専門に取り組んでいる人さえ到達不可能な状態のままです。スマホ開発や、宇宙開発はその分野に入れば、優秀であれば最先端の研究に携われるのが想像出来るものですが、大日如来の悟りは真言密教に入れば可能という情報はなく、想像も出来ないものです。これは由々しき問題です。他の専門分野は突き詰めれば到達可能とイメージ出来るものの、大日如来の悟りは到達可能なイメージはないのです。

これは自我(エゴ)の性質として「自己存在を全否定する」ことが出来ない欠点を抱えている為です。真我に触れている状態であるなら、自我(エゴ)の存在は否定出来るものです。これが会得出来るなら、後は地道に真理と照らし合わせて、真実が含まれているか、虚偽が含まれているか、を識別して適切な問答を繰り返せば到達出来るものです。常に自分と自分とを比較(他人と比較する必要がない)し、良質な自分を選ぶだけです。解けない自分と解ける自分を比較し、解ける自分で居続ける道が仏道になるものです。他者に受け入れられるかどうかを悩む以前に、自分が自分を受け入れているか悩む方が重要であり、自分の悩みの正体を自分で理解してあげることが出来ないのはもっと難儀なことだと気づく必要があります。全力で物事に打ち込んでいる自分の心が,手を抜いていると想像する力や、自分を多角的に観察して検証している心が天邪久という邪鬼でしかない事実をどのように識別するか、途方もない検証の労力につぎ込めるかが大切な点になります。

自分を捉えている自分が真我(大日如来)なのか自我(夜叉、天、明王、菩薩、如来)なのかを検証する智慧を授かるには、全てを知覚してみせる意欲が必要となります。また、あらゆるネガティブな想念(夜叉の働き)の発生メカニズムを知り尽くしていくことも大切な作業となります。冒頭にアカシックレコードについて解説したのは、今ここにいるこの場から、あらゆる情報へとアクセスすることが出来、どんな情報でも検証することが可能であり、真実を追究して明らかにすることが出来る為です。これにより、どんな場所でも立場からでも悟ることが可能であることを示すものであり、観察することを突き詰めれば全てを見透すことが出来るものとなるのです。言葉を放つことそのものが、今を離れることを知りつつも、言葉を使うしかなく、その言葉で分離した心が在るなら、言葉により統合させる妙技が存在するもので、それを「徳」という『問題そのものを消し去るもの』です。他人の苦しみを消し去って「徳」になるものですから、不足を満たすだけではないものです。気づきを与え、悩みそのものを消失させることが徳であり、誰に対しても分け隔てなく接せられる姿を「威」とした『誰からも慕われる姿』と扱うのです。それを複数人同時に救済出来ることに対して「大」とした『関わり合うあらゆる存在に働きかけること』である為、生きている者の取り巻く全てを網羅する力があるのです。誰もが本質的な自身の姿を忘れてしまっている為、それを思い出す切っ掛けとなる扉がここにあります。

大宇宙に相対する存在として人(自分の肉体や心)が在り、それを小宇宙とするなら、大宇宙の変動に連動して小宇宙の人も動くものです。小宇宙の人を捉えるなら、大宇宙そのものを同調して捉えられた状態が「悟り」であり、「大日如来」の境地であるのです。その気づきの過程におてい、善悪に囚われたり、真実か虚偽に悩まされるなどがあり、ミクロ的な極小の問題から、マクロ的な極大の問題まで連動させた繋がり合う気づきをもたらすには、細心の精密検査が不可欠となり、曖昧さやいい加減さでは捉え洩らすものがあります。スマホの開発や、宇宙開発での研究者がいい加減で曖昧な表現や誤魔化しをすることは有り得ないにも関わらず,心のことについては許されるという退廃的な価値観や腐敗的な概念がはびこっているものです。それは、退廃的な価値観や腐敗的概念がどこかで許されているからであり、「あいつもやっているからいい」という他人も腐敗しているのだから自分も腐敗したままでいいという理屈があるからです。

これが親や師であり上司であるなら、子や生徒や部下が覆すには自分の存在を否定する勢いで「生みの親」「育ての師」「導きの上司」を排除したりしなければならず、自身にも壮絶な痛みが伴い、周りから「恩を仇で返すのか?」「何様のつもりだ」「裏切り者」などの非難を浴び続ける苦痛に耐えなければなりません。どれだけの苦痛や醜聞を浴びせられようとも退廃したままや腐敗したままでいい筈などなく、誤解であるものの汚名や汚辱であろうともやり遂げなければならない課題が存在するのです。

それは理性的に見えないのです。法(人が作り出した法律のことで真理ではない)が機能しない事態が訪れているとわかるなら、「嘘をついて、それがバレなければ集団で嘘をつく者たちが最強となる」というメカニズムに気づくと、それはもはや秩序として機能しないことに気づかなくてはならず、それを見つけ、正す存在なのです。

スクリーンショット 2021-04-13 21.11.55

水牛に乗る姿で大威徳明王は知られています。水牛はこれまでの体制であり、組織的な基盤であり、生活そのものを支える貴重な存在のことを示します。水牛が健康的に過ごせるよう世話を焼く必要があると同じように、体制(政治)や、組織運営などは生き物として扱い、くまなくメンテナンスすること、世話を焼いて関係各所の意見の吸い出しや、組織の解体再編成などを行う必要があります。

人も組織も同じ事を継続すると退廃し,腐敗し、衰退し、虚弱していくものです。

夜叉が組織するもの、天が組織するもの、菩薩が組織するもの、如来が組織するものでも、退廃や腐敗の度合いは変わります。起業して出店しても、二年で倒産するなど継続しない場合は、如来としての発想で取り組めていないと破綻が来るものです。

六面六臂六足(ろくめんろっぴろくそく)とした六つの顔は、正面・真実、左・罪悪、右・忿怒、上の正面・虚偽を見破る、左・未来永劫嘘をつかせない、右・過去から今日まで嘘を告白して改めさせる、とした形相です。六つの腕は、正面で印を結ぶ両手は真実を示す者には救済を与え、左手中は、欲望に乱されない制御する力をもたらし、右手中は、全ての手の内、心の内を明らかにしようとする力をもたらし、左手上は、関わる人に嘘や偽りを持たせないとする力を与え、右手上は、関わる人の誤魔化しや邪鬼を祓い清め救い出す手を差し伸べるものです。六つの足は、過去・現在・未来を又にかけて捉えている意味で、それぞれに足を置くことが出来ているとするものです。

六面は六識、六つの腕は六波羅蜜、六つの足は六道という解釈もありますが、仏と繋がるには、そうした複数のイメージを同時に持つことを重視して教えたもののようです。本来大日如来に到達する為の化身としての姿である為、密教なら六識だけでなく十識であるべきですし、六波羅蜜だけでない十波羅蜜さえ思い浮かばせるものとし、六道だけでなく四聖にも足をかけておくものです。形在る姿だけでない部分までもイメージさせる仏像です。

繋がり方
大威徳明王そのものと自分を同化させるイメージを持ちます。全識に意識を合わせ、全方位をイメージします(十識十方)あらゆる出来事が起きていていいとし、否定するものは何一つ存在しない意識でいます。六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)と四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏)の世界をイメージして合わせて、質疑応答をします。

参考事例を紹介します。

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「自分の未熟さを知ろうとする勇気です」

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「物事は嫌がることでは何一つ解決せず、肯定して賢くなる道が開けると知る意欲です」

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「過ぎ去ることは全て許して受け入れるしか手立てが無く、認めることでしか前に進めないと理解する知性です」

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「感情は知識の不足により暴走するものでしかなく、在るべき愛情を与えてもらえずに病んだ心が在り、それを癒やしていく愛を培うことです」

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「愛の欠落は、自然状態の変化を受け入れられない為によるもので、予測と違う現実を認められない為に引き起こされた悲劇と向き合う好奇心を向けることです」

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「悲劇は自分だけの問題と捉えるなら、自分にしか解らないことしかないと気づき、助けは来ないと受け入れ、自分でしか自分を助けられないとして、嘆き悲しむ自分と一体化してみせることです」

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「傷ついている自分の心と同化出来ないのは、傷ついている自分が複数体存在しており、その魂の欠片とも呼べる分身の全てを統合させたときにしか解らないものがあると受け入れ、やってみせることです」

同化の自分「立ち向かわなければならないものは何ですか?」
大威徳明王「バラバラになっている魂の欠片の自分の分身を統合させ、その上でどんな苦しみも喜びも表現出来る自由さを得る為に、人生の全てを無邪気にはしゃぎ回れる無垢な心に還り着くことです」

同化の自分「大人にさえ成る必要がない存在そのものだったんですね」
大威徳明王(微笑んでいる)

といったやり取りが浮かぶかも知れません。

大威徳明王は、シンプルに捉えるなら善悪を見極める存在です。

ただ善悪の判断では、どうすることも出来ないとわかると、いかに悪いことをしたいと思わないようになるか、する発想そのものが消え去るかを検討するようになります。

悪意など、人が不愉快になるのは心に余裕がない為であり、暴力は止める必要があり、逃げる必要がありますが、暴言に対しては正しい知識を持ち合わせること「傷ついていない」事実を見つけ出すことが必要となります。その後に暴言を吐かせない為の工夫が必要となり、受容や許しという力を身につけていくことです。

許しの力を持つようになるなら、尊厳を示し、自分の前では悪さはさせぬ、愛のない関わりは止めさせるように律していく必要があります。

尊厳を示せるようになるなら、誰もが傷ついてから優しさを持つようになると気づくことで、慈悲と慈愛を抱けるようになるものです。

こうして、加害者がいて被害者がいる関係は、加害者のお陰で許しも優しさも尊厳も慈愛も抱けるようになるとわかると、どこにも敵が存在しなくなり、ただ学びがあるだけと気づく流れしかなかったとわかり、あらゆる出来事への執着を手放していくようになります。

それを極めていけば悟れます。

悟りはただの分量の問題です。

いかがでしたでしょうか?

この二つの記事は有料記事で、「釈迦」について言及しているものです。

わたしが今生で行う流れの中で得られた情報を紹介しています。

応援してくださる方を求めています。

世界平和に力をお貸しいただける方がいらっしゃいましたら、一緒に取り組みませんか?(何も示せませんが)

心を一つに集めていきましょう。


では、また。

リーディングマスター・まさみち。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?