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「差別の教室」藤原章生

 「いじめや無視は差別である」
 本書の冒頭部分にあるこの記述を見て、え、そうなの?と思った。さらに読み進めていくと、他にも著者の「差別」という言葉の使い方、意味の持たせ方になんとなく違和感を覚える箇所が、何度か出てきた。「差別」ということに対する自分の理解が他の人と(著者と)意外と異なっていることに気づいた。
 著者は自分の体験を紹介して「これは差別だった」「自分は明らかに〇〇を差別していた」などと差別への気づきや問題提起をしているのだが、私は「それは差別ではなく馬鹿にしている行為だろう」とか「ここで言っているのは差別ではなく誤解だろう」などと思ったのだ。
 そこで、改めて差別というものを自分なりに考えるにあたり、気持ちと行為に分けて考えてみることにした。
 まず差別という場合、直接的にそれは「行為」を示し、具体的には排除や不公平、機会不均等が非合理的な理由で生じている状況を指す。そして、その手前に「気持ち」=差別意識というものがあり、国・地域や人種、性別などに対する偏見や無知から、人を見下す、馬鹿にする気持ち・態度が生じる、と整理してみた。
 この整理からは、いわゆる差別用語を使用することは「差別(行為)」ではなく、あくまで人を侮辱する行為であり、差別行為の場で用いられる象徴的な言葉を人を侮辱する際に使った、ということになる。「差別をしているつもりはなかった」というよくある発言も無知から生じたものと捉える解釈になる。
 著者は「いじめや無視も差別だ」というのだが、このような整理から至った私の考えは、もし機会均等であればいじめや悪口があっても、それは差別ではないのではないか、ということだ。著者が本書で参照している差別の定義においても「必ずしも偏見が差別に発展するわけではない」とあるように、いじめ・悪口・誤解等は差別を生じさせる要因になることもあるが、イコール差別ということにはならないと言えるのではないか。このような意味で、著者の差別という言葉の表現に対する私の違和感は、変わることはなかった。
 読後にここまで考えてみて、試しにChatGPTにこの考え(機会均等と差別について)を聞いてみた。すると、私の視点は限定的であると指摘=ダメ出しをされてしまった。本書は、毎日新聞の記者である著者が中央大学で行った授業の内容を再構成したものだ。授業(および本書)では著者の体験が中心に語られており――著者も自ら言っているが――差別全般を網羅しているものではない。ただ、それが学生の興味をより引きつけたようで、人気の授業であったとのことだ。同様の効果は私にも起きた。私の差別の捉え方はどうやらまだまだ限定的のようであるが、本書は私にとって非常に意義のあるテキストとなった。


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