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雑記、あるいは【ただならぬ道】円城塔『Boy's Surface』感想

物心ついた頃から漫画が好きで、漫画家になりたいと思い、人生の前半ずっと漫画を描いて生きてきた。ところが数年前から何故だか文章が書きたくなり、それまで思ってもみなかった、「小説を書く」ということを、自らのものとするようになった。

中年期まっただなか、今さら職業小説家を目指すわけでもなく、ただ日々の楽しみとして文章を書き、何十年後かに1作仕上げられたらいいなと、そんなことを思っていた。しかししばらくして気づく。この道は、やばい。漫画家を目指し漫画を描いていた自分からすると、小説を書くということは随分とただならぬ道だった。

何がどうただならぬかというと、我に返る隙間がない。漫画というのはありがたいことに、既存の作にハマって自分でも描いてみる、そしてそれを人に見せると、まあ大抵こう言われるのだ「絵が下手だね」と。
絵は、上手い下手が、割と万人にわかる。真の意味でいい絵かどうかという上級のジャッジはさておき、初心者が描くような漫画の人体というのは大概バランスがおかしかったり、左向きしか描けてなかったり、キスシーンを描いたら顔がめり込んだり、しているものなのだ。自分でもそれが何となくわかるし、人からも指摘される。だから何くそと努力する、デッサンをする、上手い人を模写する、etc. 実に真っ当な道である。

対して、小説。というか、文章。明らかに巧拙は存在するのだが、これ漫画ほど一目瞭然ではないのである。そうなると、漫画よりもずっと、自惚れることができる。まあまあいいじゃん。とか思って、書き続けることができる。そして一向に上達しない。

更に、小説を人に読ませるハードルは、漫画よりも圧倒的に高い。大抵他人は読んでくれない。そうなると益々、我に返ることができない。下手なまま、それに気づかぬまま、誰も読まない小説を書き続けることになる。それはそれで別に構わないのだが、一つ問題があるとしたら、これは人をおかしくさせやすい。つまり、小説を書くとはただならぬ道だというのは、かなり人をおかしくさせやすい道を歩むことになるという、そういう意味においてである。文章を書くということに魅入られる人生というのは、漫画を描くということに魅入られる人生よりも、ずっと危うい。

これは、四半世紀漫画を描き続けてきた人間の、小説を書くということへの感想であり、今日初めて円城塔の作品を読んでの感想でもある。おかしくならずに小説を書き続けるというのは、相当な胆力が要ると思われる。『Boy's Surface』、凄かった。