“ない記憶が蘇る”と、『一ノ瀬家の大罪』第1話

11/14発売週刊少年ジャンプ、タイザン5『一ノ瀬家の大罪』第1話を読んだ。そして、そういえばネットで「ない記憶が蘇る」って言い方(ネットミーム?)あるよな、と思った。


初めてその言い回しを見たとき、「うまいこと言う」とも思ったし、「気味が悪い言い方だな」とも思った。新しい、でも聞いて一発で意味がわかる、ある種の感情に対する”名づけ”。新しい言葉は必ず少しの違和感を含んでいて、だからこそ人の意識に引っかかり、流通する。私は「ない記憶が蘇る」という言い方の、自他の区別のなさが嫌だった。

思い出というものが、必ずデジタルで保存され共有されることが当たり前になった時代ならではの感覚なのだと思う。普段私たちはあまりにも多くの人の「思い出」に囲まれている。SNSで共有され続ける思い出、記録。体験は記録されなければ意味がなくなり、記録された時点で自身の手を離れる。だからこそ自分には「ない」誰かの記憶も、自分のもののように「蘇る」ということが起きる。

一家全員で記憶喪失になった一ノ瀬家は、互いに偽の記憶を語りあうことによって、家族としての一体感を得る。ない家族旅行の記憶を作り出し、それを共有し、思い出したかのように語ることで、家族に”なる”。

でも、それって結局虚構だよね?

ない記憶の共有によって一旦結ばれたかに見えた一ノ瀬家は、しかしそれをはるかに超える大きな、重い、それぞれの現実に触れる。そして崩壊する。

作者が突きつけてくる現実の手触りは、たとえば「ない記憶が蘇る」のような価値観へのアンチテーゼのように感じられる。続きに期待。