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2年越しの暗号

千葉雅也『デッドライン』を初めて読んだとき、「これはこれまで読んできたどの小説とも違う」と思った。「こんなもの読んだことない」と思い、何がどう違うのかそれからずっと考えている。ずっとというのは、初めて手に取った2020年頭ころからで、都合7回は通しで読んでいると思うが、今だに分からない。
その後『ことばとVol.1』に発表された短編『マジックミラー』は、どういうつくりで成り立っているものなのか、自分なりに少しは掴めたように思った。2021年の『オーバーヒート』も。しかし『デッドライン』は分からない。あの本にはずっと眩しくて正視できないような煌めきがあり、分析したいと思って手に取っても、結局毎回圧倒されて、ただ読むことしかできない。

いつまでも考え続けられる、解けない謎。あまりないものだが、たまに存在する。巡り会えることは幸福である。『現代思想入門』を読んでいたら、「哲学書はどれもこれも暗号化されたファイルみたいなもので、どうやって鍵を外してある程度理解可能にするかで、研究者がさまざまな読みのアプローチを試みているのです。」とあり(p.59)、似たようなものかもしれないと思った。(全然違うかもしれない)

『マジックミラー』『オーバーヒート』は分かるといったが、勿論”自分なりに”に過ぎず、つまり誤読でしかない。それでもいいから何か自分なりに「こうだ」と掴みたい。
本当は大学のゼミのように、複数の人間で集まって少しずつ検討できたら一番いい。今日読んだ藤山直樹『集中講義・精神分析(下)』にそんな場面があった。

だからビオンの本は一人で読むのは大変難しくて、『経験から学ぶLearning from Experience』という本を四十代の初めぐらいに六人ぐらいの人と読んだのはとてもすばらしい体験でした。要するに一人が読み、翻訳するんですけれどーーまだ翻訳は出ていなかったのでーー、わけがわからないから、ほとんど十五分ぐらい全員沈黙したりしているんです。なんか、一人が「あれー?」とか言って全然関係ない話をし出したりして、そうすると、スッと誰かが何かを思いついて「このあいだのあの患者のこういうことかな?」とか言ったりして、「ああ、そういえば……これはこういうことか」みたいなことになるみたいな。
藤山直樹『集中講義・精神分析(下)』p.130-131

そんな感じで一節づつ誰かと読んでいきたい。しかしそんな相手はいないので、ずっと自分一人で考えている。冒頭から一節づつ、ぜんぶ細かく読み解いていって(前の記事くらいの密度で)それを継続的にnoteに投稿しようかと思ったが、全文その調子で引用していたら著作権侵害になるだろう。

昨日、著者のオンライン対談【『君たちはしかし再び来い』&文庫『アメリカ紀行』刊行記念 山下澄人×千葉雅也 制御をはみ出す言葉の先に】を聞いていたら、「風の通り方を設計している」との話があって、「そうか!そう読めばいいのか!書かれたものを読もうとするのでなく、書かれていないものを辿るように読めばいいのか!!」と興奮した。それで、じゃあそれを正解と思ってしまえばいいのだろうか、と少し考えた。

『デッドライン』を読むには前提となる現代思想の書を読まないとならず、それらを理解しなければ理解することができない。自分にとっては、そうである。となるとこの人生では辿り着けそうにない。であれば、著者から与えられた回答の一つを回答としてしまってもいい…のだろうか?でも、それはやはり違うように思う。あくまでも知りたいのは、自分にとっての回答だからだ。この感動の正体を、自分で掴みたいという動機で、考え続けることを楽しむ。