父を葬る

 父が死んだ。兄からその電話を受けた時に、ついに来たかという気持ちと共に、現実を受け入れられていない自分もいた。

 電話を切り、ベッドから重い身体を起こし立ち上がってみた。

 カーテンを開けると外は雨模様。薄暗く、街は夕暮れへと向かっていた。

 俺は机の上にある薬を飲み、ぼんやりとした頭で外出の準備を始める。

 俺は現在自己破産の手続き中、躁鬱で精神障碍者手帳二級。仕事は求職中だが、そろそろ働かねばまずいのに、身体が言うことをきかない

 焦燥や思いとは裏腹に薬の副作用と自己破産がどうなるかの緊張もあり寝たきりのような生活をしていた。

 精神も体力も最悪な状況だった。

 それは、数日前の父も似たようなものだったのだろうか。

 父は二年前にガンの宣告を受けていた。かなり無理をして、田舎の祖母の介護を一人きりでしていた。合計5年以上も実家と田舎を行き来していて、数ヶ月に一度実家に戻るという生活をしていた。

 父は介護は子供がするべきもので施設に入れるのはとんでもないという考えだった。だが、介護の経験はなくサラリーマンとして働いていた父。退職後に田舎での老いた母の介護はかなり応えるものだっただろう。

 父が実家に帰宅している際に顔を見に行くことがしばしばあった。その時、いつからか明らかに顔つきがおかしくなってやせ細っていることに気が付いた。母と何度も病院に行くことを勧めたが、人の意見を聞くのが嫌いで我が道を行く父はそれを何度も跳ねのけていた。

 でも、そんな強気な父も明らかに顔つきが衰弱し、
「俺は大丈夫だよな」と弱気な発言をするようになってきていた。

 大丈夫ではなかった。田舎の病院で診てもらうと、ここでは無理だということで東京の病院に即入院。癌は転移していて五つも身体を蝕んでいた。そして、父の母、俺にとってのおばあちゃんが実家にくることになる。それを介護するのは母だった。

 母は田舎から出てきて、東京で自分の店を持つようになるような努力と負けん気の強い人だった。そんなたのもしい母だが、年齢はもう80近くになろうとしている。おばあちゃんは98近い超高齢者。

 愚かなことに俺も誰も彼もヘルパーを雇うとか施設に入れるとかいう発想もお金もなかった。母はとても怒りやすくなって、疲れ切っていた。父にとっては愛しい母親でも、母にとっては姑だ。しかも、過去にわだかまりがあった。

 母はことあるごとにそれを愚痴っていた。俺はそれを聞くことしかできなかった。

 父が入院中に父の母、俺にとってのおばあちゃんは亡くなった。原因は老衰とのことだった。急な環境の変化に耐えられなかったのかもしれない。

 退院した父は身体を何か所も切除し、しばしば弱気になっていた。前までは頼み事などほとんどしなかったのに、俺や兄に色んな物が欲しいと注文をした。その姿は我儘な子供に似ていた。

 父は元々詩人を志望していた。フランス文学、特にステファン・マラルメに傾倒していた。だから、結婚して不本意な会社員生活を送ることになり、休みは子供と遊ぶ時間の代わりに自分の執筆と読書の時間。

 父とどこかに遊びに行った、という記憶が乏しい。それは大人になってから、たまに兄とも話題に出ることがあった。

「あいつは誕生日に、親からおもちゃをもらえるからいいよな」って俺も兄も思っていた。父の頭の中には誕生日を祝うとか子供の為に贈り物をするということをが抜けていた。その代わり、詩人を中断し必死で働き、兄弟を大学まで進学させた。

 がむしゃらで傲慢で自信満々な父。母親や妻には甘えるが、子供にはあまり興味を持たない父。そんな父だが、何度か大人になってから金銭的にも精神的にも助けてもらったこともある。不器用で、愛情深い一面があることを兄弟とも知っていた。でもそれは普段表に出なかった。

 本当にたまたま、家にあった本を読んだという訳ではなく、俺もフランスの文学や芸術が好きだった。マラルメ、ランボー、ボードレールと親の影響を受けたわけでもないのに、俺はたまたま文学に興味を持ち芸術家、作家を志すことになる。

 だが、俺は色んな賞に応募しても結果は振るわなかった。仕事も続かない、友人は本と音楽と映画。二十代で心療内科のお世話になり、十数年、薬を飲む生活をしている。そんな俺を父は精神が弱いからだと一蹴した。俺は理解してほしくて両親に何度も自分の病気の話をしたが、理解は得られなかった。

 ああ、駄目な物は駄目なんだなあ、そして俺は親に自分の病気を認めて欲しかったのだなあと今になって思う。
 
 俺はそのまま中年になって、何も変わらない人生。ただ、焦りと鬱が酷く、もう、人生を諦めようかという思いが強くなっていた。仕事は続かず、いつしか本も読めないし書けなくなっていた。そんな俺の価値は、拠り所は。

 三十代後半で、全くしていないギャンブルに狂った。だめだと思っているのに止められず、色んな所から限界まで借りて、それで借金を増やす日々。何度も自殺をしようと思いながらも踏みとどまったが、毎日不安定で泣いていた。精神状態も最悪だった。

 躁鬱の波が一瞬落ち着き、ある時、ふと我に返り、去年の年末に自己破産の手続きをかいしした。

 当然親には報告した。父も母も怒らなかった。ただ、ぶっきらぼうな励ましの言葉がかえってきたように記憶している。

 元々精神の病気もちなのに、自己破産の心配と薬の副作用で身体が思うように動かず、怠惰な日々を過ごしていた。恥ずかしくて実家からも遠ざかっていた。

 そんな折、母から父の容体が急変したという一報を受けた。俺は当然会いたいと思ったが、父が実家で寝たきりで、母が自分以外の人間と電話するだけで怒鳴り散らしていた。

 俺は実家に帰って面会をしたかったが、精神がややおかしくなっているらしい父と、会うことは出来なさそうだった。

 数か月前は、それなりに元気そうだったのに。こんなにも変わってしまうのか。

 俺がギャンブルに狂う前、一年と少し前には、退院した父に色々な身体に良い食べ物やら頼まれた本やらを送っていた。実家に何度も顔を出していた。退院した父と、少し会話が生まれるようになっていた。とはいっても父の話を一方的に聞くだけだが。

 それでも、恩返しをしている気持ちでいた。すこしだけ、気分が穏やかになっているのを感じた。親が生きているうちしかできないから。そんな気持ちで色んな物を両親に送り実家に顔を出していたのに、ギャンブル依存からの自己破産手続きと俺の精神面の病状の悪化でそれどころではなくなってしまった。

 父が癌の宣告を受けてから二年、わりと少しずつ回復しているように見えていたが、或る時の定期健診で数値が高くなっていて余命宣告を告げられてしまった。

 その時に同席していたのは兄で、丁度冒頭の電話を受ける一か月前だった。父は医者に激怒していたそうだ、というか父は自分の意見が通らないと当たり散らす幼稚な面があった。

 そんな父が、死んだ。わがままで我が道を行き、子供よりも母親と妻を愛した。ある意味、典型的な昭和の男という感じもする。子供には愛情はあるが不器用で、仕事熱心でマザコン。

 それでも、なんでもとにかく大切な俺の父親なのだ。その父が死んだ。

 俺は情緒不安定だからすぐに泣く。電車の中で父を思い泣き、病院についてみると、兄と母が警察の取り調べを受けている最中だった。兄はスマホをいじり、母は興奮状態で警察官に余計な事まで念入りに訴えていた。

 俺のすることはすくなかった。ただ、警察の取り調べが終わった時、そういえば俺は父の顔を見ていないと伝えると、霊安室らしき場所で毛布にくるまれた父と出会った。

 半目を見開いて頬はこけ、何かを訴えかけているような様子だった。辛かったのだろうと思い、毛布の中から手を取り出して触れようとして、涙が出そうになるので、手を引っ込めた。

 警察は現場検証でまた後で来ますということになり、母と兄と言葉少なに実家に戻ると、そのままにしておかねばならないのに、母が父が寝ていた布団をたたみだした。

「しょうがねえなあ」と兄と苦笑して、布団を汚く敷きなおした。

 明日警察に行かねばならないということになり、母が心配だったからその日俺は泊まり、家庭や仕事で大忙しの兄は一度帰宅することになった。

 俺と二人きりになり、少し落ち着き始めた母はやたらと俺の布団はどうだ寝心地は毛布はと世話をやきたがり、大丈夫だよと何度言っても聞かずに色々なことを心配してきた。それはいつもの母の姿だったが、何だか痛々しくて見ていられなかった。

 翌日警察署に行き、葬儀屋の相談を済ませた。

 ここからが大変だった。父の携帯電話やネットの解約 遺品の整理、死亡届の提出、年金事務所への遺族年金の変更。親戚への連絡。

 これ以外にもあるしこれだけでも頭をかかえそうになるが、他にも大きな問題があった。

 それは両親は年金で暮らしていたが、今住んでいる場所で母の一人暮らしでは生活がなりたたないということだ。つまり年老いた母に一人暮らしの準備をさせることになる。父の闘病生活で、貯金はほとんどない。

 これはかなりこたえたし、母も覚悟はできているとはいうものの、具体的な話をすると誤魔化したり別の話をしたり。今やるべきではないかもしれない。でも、俺も兄も母の金銭的なサポートをずっと続けるのは難しかった(兄は既にしていたがこれいじょう続けるのは難しかった)。兄は仕事があるからずっと母のサポートで実家にいるわけにもいかない。父の大量の荷物を処分しながら新しい家も決めなければならない。

 その上、母は携帯電話をかけるのを、何度教えてもできないのだ。スマホではなくガラケーだ。近くの人の電話を借りて、通話をしてもらうという恐ろしい連絡方法をしてきたこともある。

 それに、父がいない今、電話が繋がらないとしたら母が生きているのか死んでいるのか分からない。これはとても恐ろしいことだ。

 通話のやり方を紙に書いて、それを見て何度も練習してもらった。これは前にもした。でも、同じことをした。一応、できるらしいというような感触はあったが、一気につめこむのもつらいということで、その紙を冷蔵庫に貼ってもらってひとまず終了になった。

 翌日、俺らは祭場にいた。親戚の人も来てくれた。有難いことだと思ったが、中にはわだかまりがあった人たちもいた。だが話してみると、父がかなり嘘をついていたり自分のわがままをぶつけていたらしきことが判明し、後日また話すことになった。

 父の火葬の日に、父の悪口を言うことになるなんて。まあ、好き勝手に生きた父らしいとも思った。

 だが、燃やす前、綺麗に化粧をしてもらった父の姿を見て、その冷たくなった顔に触れると涙が止まらなくなった。理屈ではなかった。もう、いないのはわかっているのに、指で触れるとそれを体温が伝えてきた。

 骨になった父と帰宅した。様々な今後やらねばならないことを話し合った。涙は出ても、ゆっくりと悲しむ時間というのはいつになるのだろう。ネットで調べると親が死んだらやることリストというのが沢山出てきてとても参考になった。

 でも、一度に何個もできないし、とりあえず今日は次にやることの計画を立てることにした。

 帰宅して兄が家の中を漁っていた。何をしているのだろうと思ったら、昔の写真を探していた。俺は悲しくなるからやめようと思っていたが兄がこの写真いいじゃんとかしょうぶ湯の写真はクリスマスツリーのは、等と言って写真を見せてきていて、

「ああ、小さい頃は沢山(一度きりのもあったけど)遊びに行ったなあ、つれていってくれたなあ、楽しかったなあ」

 という記憶が一気に蘇ってきた。母が撮ったピンボケ写真や誰かが撮った下手な写真の数々、色んな所に行った思い出の数々。

 俺のお父さんは自己中心的で人の話を聞かず、最後には意見が通らないと激怒するようになってしまった。フランス文学に傾倒していて自分が詩人だとか言っていた、でも、普通のお父さんだったなって。

 普通のお父さんに愛されていた記憶、なんて幸福な事なんだろう。

 これから俺は自分の人生を立て直し、母の助けをしなければならない。もっともっといきたかったであろう父。それなのに躁うつ病で、ふと自殺したくなる息子。

 とりあえず、母が一人で暮らせるようになるまで、俺は死ねない。

 お父さんありがとう。お母さんのこと、見ていてね。もしよかったら俺とお兄ちゃんのことも。

 人生は続いてしまう。願わくば、俺も誰かの助けになれるように。誰かを愛せますように。

 

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