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大物官僚たちの「私の履歴書」(上)


以下の記事は、2024年2月22日付「NIKKEI Financial」に執筆したものです。去年11月に黒田東彦前日銀総裁、今年1月に武藤敏郎元副総裁が相次いで日本経済新聞「私の履歴書」に寄稿したことから、2人が残した”自叙伝”を私なりの目線で読み解いてみました。政策検証について関心のある方はどうぞ。

議決延期請求24年⽬の真相 武藤元次官が明かす主役
西野智彦が読む「私の履歴書」(前編)

財政金融の政策検証に取り組んでいる筆者にとって、日本経済新聞は欠かすことのできない貴重な情報源である。これを読まなければ仕事にならないし、自分の情報量とレベルを確かめるための物差しでもある。

あくまでも仕事の一環として読むため、基本的に記事に対する好き嫌いはなく、特段の無感情も抱かず、淡々と紙面に目を通すのが日課となっている。だが、この3カ月、久々にわくわくしながら朝刊を手に取った。元日銀総裁の黒田東彦氏と元財務事務次官の武藤敏彦氏による「私の履歴書」(以下「履歴書」)が掲載されたからだ。

10年余にわたり日銀総裁を務めた黒田氏の履歴書は去年11月、財務次官として最長の在任期間を持つ武藤氏のそれは今年1月に掲載された。2人とも日本経済の舵取りを担った主役であり、その自叙伝は政策検証を進めるうえで極めて価値が高い。果たしてどこまで内実を明かすのか、心の内を描くのか、興味津々で読み続けた。(以下敬称略)

◆タイミングめぐり議論呼ぶ
まず黒田の履歴書は、総裁を退任してわずか半年後に掲載されたことから、そのタイミングをめぐって関係者の間で議論になった。旧大蔵省OBの集いでは、「いくらなんでも早すぎる」「先輩の武藤さんを差し置いて書くのは礼を失している」との批判が出たらしく、日銀には「早く載せなければならない事情でもあったのか」と探りを入れるOBもいたという。

だが、黒田をよく知る人物は「タイミングに特別な意味はないよ」と笑う。黒田は基本的に書くことが好きで、若いころからさまざまな媒体に寄稿してきた。その一方、今年1月から長期のニューヨーク滞在を予定していたため、「どうせ書くなら訪米前に片づけておこうと考えた、その程度の話ではないか」と話す。

もっとも、早く寄稿するので面白い裏話を紹介しようという「サービス精神」は、もとより黒田にはない。しかも総裁時代の記述については、機微に触れる箇所がないかどうかを日銀側と綿密に打ち合わせた上で書いている。このため今回の履歴書は、黒田が将来にわたり告白できる「ぎりぎりのライン」である、と筆者は考えた。たまたま執筆中だった「ドキュメント異次元緩和」(岩波新書)を締め切り間際で差し替え、履歴書のエッセンスを急ぎ加筆したのもそのためだ。

一方、武藤は旧大蔵省で組織解体の憂き目に遭ったあと、福井俊彦総裁の下で日銀副総裁を務め、次の総裁候補となった。ところが、衆参ねじれ状態の下で野党の同意が得られず、総裁の座を白川方明に譲る結果となる。さらにその5年後にも再び総裁候補に取り沙汰されたが、安倍晋三首相は黒田に白羽の矢を立てた。2度にわたり日銀総裁の座を逸した、いわば悲運の大物官僚である。

入省年次は武藤が黒田より1期上だが、ほぼ同時代を生きた2人の“スター官僚”がそれぞれ自身の半生をどう総括するかは、政官界や金融界で注目の的となった。バブル崩壊後の経済運営を検証してきた筆者もまた、「答え合わせ」をするような思いでチェックした。

◆ゼロ金利解除をそろって批判
1カ月に及ぶ長期連載は、その生い立ちから学生時代、恩師との出会いと展開し、大蔵省入省後は税務署長、海外赴任、県庁への出向など「昭和の大蔵官僚」らしいキャリアをたどる。その後、2人の歩む道は徐々に変わり、政策体験も違ってくるが、バブル崩壊という歴史的事象に直面し、2人の認識は再びそろっていく。なかでも面白かったのは、2000年8月のゼロ金利解除について、まるで事前に申し合わせたように日銀を批判していることだ。

当時財務官だった黒田は「デフレの状況が続いているにもかかわらず、日銀は(中略)ゼロ金利を解除した。私はこの決定は間違っていると思った」と書き、事務次官に就任したばかりの武藤も「総裁は7月にも政策変更に動こうとされたが、我々は景気の足取りは怪しく、時期尚早だと考えていた」と記した。新日銀法の下で速水優総裁(当時)が主導したゼロ金利解除は、バブル崩壊後の大きな失政だったと2人とも位置付けていたことになる。

ただ、2人の記録はここから「微妙な違い」を見せる。ゼロ金利解除に対する議決延期請求権の発動についての証言が異なるのである。
まず、履歴書で「先行」した黒田は、こう書いた。

新日銀法は蔵相が日銀に議決の延期を求める権利があると定める。慎重論もあったが、宮沢喜一蔵相が「誤った決定と考えるなら、否決されるとしても議決延期請求権を行使し、歴史の審判を仰ぐべき」と指示したと聞いた。(2023年11月19日、第18回)

あくまでも議決延期請求の主役は宮沢だったとの認識だ。

ところが、黒田に2カ月遅れて履歴書を寄稿した武藤は、議決延期請求発動の裏に「別の主役」がいたことを明かした。

宮沢喜一大蔵大臣は速水総裁に解除を思いとどまるよう水面下で自ら説得されたが、議論はかみ合わなかったようだ。そこで堺屋太一経済企画庁長官が「政府は日銀法19条に基づく議決延期請求権を発動すべきだ」と提案された。1998年施行の新日銀法は、金融政策に関する日銀の独立性を強化したうえで政府との「十分な意思疎通」も求め、政府に議決延期請求権を与えた。(中略)宮沢大臣に導入の経緯を詳しく説明し、賛同していただいたが、こんなに早く現実に発動するとは思わなかった。(2024年1月21日、第20回)

この記述に驚いたのは、日銀側である。
当時企画ラインにいた関係者の記憶では、確かに堺屋もゼロ金利解除には反対だったが、議決延期請求の発動はあくまでも宮沢自身の決断によるものであり、武藤の記述は「経企庁主導説」を定着させる意図があるのではないか、と勘繰る者さえいた。

◆オーラル・ヒストリーに書かれていたこと
「堺屋主導説」を確かめようと、筆者は財務省に保存されている武藤のオーラル・ヒストリー記録に当たることにした。この記録は、財政史を編纂するため、財務総合研究所が局長以上の幹部職員を対象に営々と実施しているもので、古くは戦時中に蔵相を務めた賀屋興宣らの聴き取り記録もある。

武藤に対するインタビューは2009年6月に行われ、「平成12年7月から同15年1月までの事務次官当時の諸問題等について」とのタイトルで保存されている。
武藤はここで次のように証言している。少し長いが引用する。

我々は経企庁と色々相談して、ゼロ金利解除はちょっと早過ぎるということで、どうこれに対応するかということになりました。新しい日銀法の下で、大蔵省と経企庁の代表者が政策委員会でどのように発言するかといったことがかなり深刻な問題となりました。
堺屋さんが経企庁長官だったんですけれども、堺屋さんも極めてこのゼロ金利解除には否定的でありまして、宮澤大臣のところに来られて、やはり日銀には毅然として対応したらどうかといったようなことを言われたわけでございます。宮澤大臣は、たしかこの時だったと思いますけれども、我々が聞いたのは最低2回、電話もあったと思いますけれど、速水総裁・宮澤大蔵大臣会談というのがありました。
議決延期請求権を行使したいというのは、私の記憶では堺屋大臣の意向だったと思います。(中略)私はそんなに早く議決延期請求権を使うような事態になるとは予想していなかったんですけれども、ここは黒白はっきりさせておいた方がいいだろうということで、最終的には議決延期請求することになりました。

武藤はそのうえで、当時の政府側の判断は正しかったと言い切っている。

9月になると、実は景気が再び悪化するようなデータが出てきたという記憶がありまして。あの時1回延ばしておれば多分ゼロ金利解除はできなかったんじゃないかと思うんです。(中略)その後、日銀に対する世論の風当たりといいますか、マスコミや政治の風当たりが今までよりもひとしお強くなったのではないかと思います。当方としては(議決延期請求を)やって良かったなと思っておりました。

このインタビューには、財政史編纂顧問を務める斎藤次郎と、武藤次官の下で官房長を務めていた細川興一の両元事務次官が同席しており、この席で武藤が事実と異なる証言をしたとは考えにくい。堺屋長官が宮沢蔵相の決断にそれなりの影響を及ぼしたのは、おそらく歴史の事実なのだろう。

念のため、この議決延期請求に直接かかわっていた大蔵省幹部にも話を聞いてみた。匿名を条件に彼が打ち明けた当時の舞台裏はこうである。

・省内でゼロ金利解除にいちばん反対したのは黒田氏だった。よく財務官室に呼ばれ、日銀の判断は間違っている、議決延期請求やるべきだ、俺はこの件では権限がないからこうしてお前に言っていると何度も言われた。黒田さんはとにかくアンチ日銀だった。
・黒田さんと同じく反対していたのが経企庁だった。堺屋大臣はその急先鋒で、議決延期請求権を出せと主張していた。
・我々としては、さすがに議決延期請求まではいかないだろうと考えていたが、事務方の方針が固まる前に大臣に呼ばれ、宮沢さんに言われた。「総理が反対している。日銀総裁が総理の意向に反して解除するということはあってはならない。議決権を発動しなさい」と。
議決延期請求が行われたと聞いたとき、黒田財務官は「よくやった」と喜んでいた。(取材メモより抜粋)

 
このように、議決延期請求をめぐる当事者たちの認識は、おおむね一致しているが、細かい点で微妙に異なる。(ちなみに黒田は、自身が議決延期請求を強く主張した記憶はない、と日銀関係者には話していたようだ)

筆者がこれまで取材した政策当局者の多くは、日記や手帳などにこまめに記録を残しており、しばしば誇張や「焦点隠し」は見られるものの、基本的に彼らの語る言葉にウソはない。ただ、それぞれの立場で得ていた情報と、そこから見えた「景色」は、個々人によって異なる。そこに記憶をベースにした政策検証の難しさと妙味があり、2人の履歴書についても、そうした特性を理解したうえで読んだ方が適切であると再確認した。

後編では、履歴書に滲み出た2人の金融政策論の違いと、それが総裁人事に及ぼした影響について触れる。                       (了)
※後編は来週公開の予定です。


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