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大物官僚たちの「私の履歴書」(下)

先週公開した前編の続きです。
2024年2月27日付NIKKEI Financialに寄稿しました。
金融政策や政策検証、オーラルヒストリーなどに関心のある方はどうぞ。

⽇銀を嫌った⿊⽥⽒ にじみ出る⾦融政策観の違い
西野智彦が読む「私の履歴書」(後編)

史上最長の10年余にわたり日銀総裁を務めた黒田氏は、実は日本銀行の伝統的な政策思想を忌み嫌っていた。「根拠に乏しいリフレ派ははなから相手にしていなかったが、それ以上にドグマティックな日銀理論の方を嫌悪していた」と同氏に近い複数の人物が証言している。

去年11月に掲載された黒田氏の「私の履歴書」(以下「履歴書」)に、それを滲ませる記述が随所にみられた。いくつか例を挙げてみよう。(以下敬称略)

◆日銀プロパー総裁を「滅多斬り」
まず1989年から94年まで総裁を務め、「平成の鬼平」の異名を持つ三重野康時代について、黒田は履歴書にこう書いた。

株式市場を含むバブル崩壊を招いたのは(中略)三重野康日銀総裁の下での「バブル潰し」の金融引き締め策だった。日経平均株価は89年末の3万8915円87銭の最高値から急落して、90年10月には2万円を割った。株価と地価は90年代を通じて下落を続け、金融機関の不良債権問題を深刻にした。(2023年11月14日、第13回)

バブルは「崩壊」したのではなく、三重野体制が「潰した」という認識だ。

続いて、前編でも書いたように、黒田は速水優時代のゼロ金利解除を「この決定は間違っている」と否定し、そのうえで「(速水総裁は)物価が下がることにはプラス面もあるという「良いデフレ」論を展開し、円高・ドル安を歓迎する発言もしてデフレを悪化させた」と酷評する。(11月19日、第18回)

さらに次の福井俊彦時代に対しても、「06年3月に(中略)量的金融緩和の解除を決めた。結果的には時期尚早だった。08年の米リーマン・ブラザーズ破綻に伴う世界金融危機後にデフレの復活を招いたのは残念だ」(11月20日、第19回)とバツ印をつけ、白川方明総裁時代に至っては、「幸い、白川前総裁のもとで日銀の政策委員会は消費者物価上昇率を2%とする物価安定目標を定めた」と振り返った(11月24日、第23回)。

安倍晋三首相に押し込まれる形で、2%目標を渋々受け入れた白川の決断を「幸い」と評価したことは、皮肉以外の何物でもない。ある日銀OBは、「白川時代で評価できるのは2%目標を決めたことぐらいだと言わんばかりだ」と顔をしかめた。(黒田は「公研」2024年1月号にも寄稿し、「政策効果を見誤った例」として、バブル潰しの金融引き締め、不良債権問題対応の遅れ、不十分な金融緩和でデフレ持続の3つを挙げている)

実際、黒田の「日銀嫌い」は旧大蔵省時代から有名で、しばしば周囲に「自分の役割ではないなどと理屈を並べ立て、すぐ逃げようとする」と日銀への不信感を口にしていた。

アジア開発銀行総裁だった2007年5月、財務省のオーラル・ヒストリー・インタビューに応じた際も、自身の日銀観を次のように述べている。

金融政策が相当やってくれないとだめですということは厳しく日銀には申し上げました。(中略)一定のインフレもデフレもないような状況にするという責任と義務がやはり中央銀行にあると私は思っていますので、その原因がこれは中国産品が安いのが流れ込んでくるからデフレだとか、いや、これはバブルが崩壊してこうなってああなったからこうだとか、石油価格が下がったからだとか、そういうことを幾ら並べられても、それはそうでしょうけれども、あなたの責任は免責されません、ちゃんとデフレをとめるのがあなたの責任で、義務でしょうというのが私のロジックです。だから、日銀の人には非常に嫌われているのではないかと思います。(「平成9年7月から同11年7月までの国際金融局長、国際局長及び同11年7月から同15年1月までの財務官当時の諸課題について」より)

黒田の不満は、金融緩和はなるべく小規模にとどめ、かつできるだけ早く解除しようとしたがる日銀マンの「習い性」に向けられたものである。その意味で、総裁就任後すぐに打ち出した大規模緩和は、そうした長年の怒りと不満を一気に吐き出したようにも見える。

10年間の政策対応について、黒田は履歴書の中で「総力を挙げた大幅な金融緩和で「デフレではない」経済は実現した」(11月1日、第1回)、「民間部門からは長年の金融緩和による副作用の指摘もあった。だが、デフレを脱却して物価安定を実現するための有効な代案はあっただろうか。私なりに国益を追い、最善を尽くしてきたつもりだ」(同28日、第27回)などと10年間の成果を強調し、最後は「リスクを恐れて優柔不断であることは、事態を悪化させるばかりである」と、再び“優柔不断な日銀”に戻らぬようクギを刺した(同30日、第29回)。

◆金融政策観の明らかな違い
一方、黒田に2カ月遅れる形で今年1月に寄稿した1期先輩の武藤敏郎は、後輩と異なる金融政策論を随所に滲ませている。

例えば、「インフレ目標」について、武藤はこう書いた。

経済の先行きには予想できないことがしばしば起こる。私は期限を決めてインフレ目標を達成すると宣言することには、弾力的な金融政策運営の観点から慎重であるべきだと考えていた。その後もこの考えは変わらない。(1月23日、第22回)

白川時代に物価安定目標が設定されたことを評価し、最後まで2%にこだわった黒田とは、明らかにスタンスが違う。黒田が中央銀行の強いコミットメントと大規模な量的緩和による「期待への働きかけ」を重視したのに対し、武藤は何より金融政策の機動性と弾力性を重んじ、どちらかと言えば日銀理論に近いオーソドックスな政策運営を支持していた。

実は、武藤は財務省OBの中でも異次元緩和にはとりわけ批判的で、2022年の総裁人事では「黒田路線からの脱却」を首相官邸や財務省に陰に陽に働きかけていた、と関係者は明かす。

それによると、武藤の問題意識は、長すぎた金融緩和の副作用により日本経済が弛緩し、成長力が低下し、財政規律も失われたというもので、履歴書の中でも「かつて高かった日本の国際競争力は最近では主要国の中で後れをとっており、このままでは国際的地位が低下していくのではないかと危惧している」(1月26日、第25回)と警鐘を鳴らしている。
直接的な黒田批判こそしなかったものの、武藤は異次元緩和のマイナス面を強く懸念する当局者の一人であり、そうした思いは履歴書の端々から読み取ることができる。

◆「不都合な過去」にも向き合う
もう一つ、武藤の履歴書が黒田と対照的だったのは、「不都合な過去」にできる限り向き合おうという姿勢を貫いたことだ。

黒田の履歴書は、異次元緩和の成果を強調する半面、10年経っても2%目標を達成できなかったことへの反省やマイナス金利導入後の混乱、退任間際の円安・物価高といった数々の「計算違い」について、踏み込んだ記述をしていない。歴代の日銀出身総裁をあれほど“滅多斬り”にしたのと比べ、かなり甘めの自己採点と言える。

これに対し、武藤は自身が直面した数々の窮境を真正面から取り上げた。
旧大蔵省で順調に出世しながら、官房長だった1998年に職員の接待汚職事件で監督責任を問われ、霞が関では異例の降格処分を受けた。履歴書で次のように回想している。

省内の綱紀の責任者は官房長なので、辞任を覚悟したのだ。だが、(橋本龍太郎)首相は「これからも色々なことが起こりうる。やることがまだあるんじゃないか」と話され、「君は降格だ」と告げられた。(中略)会見を終えて官房長室に戻ると、テレビを見た妻の直子から電話がかかってきた。
「あなたのあんなに苦しそうな顔は見たことがない。大蔵省を辞める決断をするなら、私はついていきます。家族のことは心配しないで」(1月18日、第17回)

次にその10年後、福田康夫首相から日銀総裁候補に指名されながら、ねじれ国会のため野党民主党の同意が得られず、総裁の座を白川方明に譲る結果となる。武藤は当時の思いをこう綴った。

私が日銀総裁になるのは財金分離(財政と金融の分離)に反する、という(野党側の)論法には納得がいかなかった。(中略)私は国会の手続きが始まる前に総裁候補を辞退したい、と自民党幹部に申し出た。だが、「衆院は与党多数で可決するので、総裁候補が消えては困る」と言われ、不同意を避けがたい手続きに臨んだ。(中略)この一件が自分の人生にとってどうだったのか。振り返ると、人間万事塞翁が馬としか言いようがない気がする。(1月25日、第24回)

また、2020東京オリンピック終了後に発覚した贈収賄事件に関しても、大会組織委員会の事務総長として謝罪の弁を記している。

もちろん、履歴書で取り上げたと言っても「秘密の暴露」があったわけではなく、贈収賄事件をはじめ未解明の謎はまだまだある。それでも過去の失敗や困難、苦悩について、できる限り率直に向き合う姿勢が、この種の自叙伝では決定的に重要だ。波乱万丈を絵に描いた武藤の履歴書は、次世代の当局者にとって重い教訓となるだろう。

◆自叙伝・口述史の効能と問題点
履歴書に代表される自叙伝や回顧録、オーラル・ヒストリーは、当局の公式文書には書かれていない「意思決定のプロセス」を読み解くための重要なツールである。政策の構想段階から正式決定に至るまでの間に組織内でどのような議論があり、他にどんな選択肢が用意され、政治を含む「圧力団体」とどのような意見調整を行ったのかを知る手掛かりとなるからだ。実際、武藤の履歴書はゼロ金利解除の際に出した議決延期請求の舞台裏の一端を明らかにした。

ただ、これらの記録は当人の記憶に依拠しているため、内容の信憑性を確かめるには日記や手帳など文献による裏付けが必要であり、他の関係者からも話を聞き、裏を取る必要がある。前編でも書いたように、関係者がその時点で得ていた情報と、目にしていた「景色」はポジションによって異なるため、事実の認定には相当な時間を要するケースが少なくない。

さらに気がかりなのは、2001年の情報公開法(行政機関の保有する情報の公開に関する法律)の施行を前に、多くの行政機関で「不都合な文書」が次々と廃棄され、オーラル・ヒストリーについても差し障りのない内容に変わってきたことだ。将来、情報公開されることを想定し、「このラインを超えて話さない」という暗黙の合意が形成されつつあるのを筆者は取材で感じている。

例えば、財務省のオーラル・ヒストリーのうち、昭和期に実施されたものは、将来の開示を想定していなかったこともあり、かなり生々しい舞台裏が語られているが、平成期については総じて面白みに欠ける。ある関係者は「本人の了解を得て、具合の悪い箇所を事後的に削除してもらったものもある」と打ち明ける。

政策検証は、後世に教訓を伝承するとともに、国民への情報開示を介して民主主義の基盤を強化する。黒田自身、最新の寄稿で「過去の経験を振り返り、ポリシー・スペース(政治的・社会的に可能な政策範囲)の判断が間違っていなかったか、その下でも経済理論的に最適な選択をしていたのか、検証することが望ましい」と書いている(「公研」2024年1月号)。

自叙伝やオーラル・ヒストリーには、前述したような限界や課題もあるが、引き続き意思決定プロセス解明におけるカギを握るに違いない。2人のスーパーエリートが残した履歴書は、そうした取り組みの重要性と難しさを改めて認識させるものと言える。                                (了)

読んでいただき有難うございました。また機を見て投稿します。
なお、先週公開した前編を含め、許可なく複製・転載することはできませんので、ご留意ください。

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