認められたい病

たった4ヶ月ほどで世界は大きく変わってしまい、

3密を避けるため、人との距離も遠くなっていく今日この頃。


もともと人との物理的距離も心理的距離も遠かった私は3密を避けるのは得意なのですが、誰とも会えないのだとしたらどうなるかな?と思うと

もともと自尊心の低い人間で、人の反応で自尊心を満たそうとする性質があり、きっと人との接触がなかったら、自分の世話もせずにだんだんと人であることを放棄するような生き方をしていくだろうと容易に想像出来ます。

これまでもそうでした。簡潔に言えば、拗ねるのです。


もうこんな性質の人間は、認めて欲しいと言う欲を満たすために人を利用していると言っても過言では無い。

今になって思えば、まったく迷惑な人間なのだなと反省ですが。


こういった話しを始めると、いつもここに行き着いてしまうのですが、

やはり、幼少期に反応を貰えなかった事は大きい。家庭内での承認が皆無と言って無かった私は、

今まで、分かりやすい形での承認に飢えていたのかもしれません。


今までの私と言えば、

怒られない様に怒りに満ちた雰囲気を打開するため、必死に戯ける。

存在を無視され続けてきたため、何としても認めてもらうため様々なアピールする。

それが生存するために選んだ方法だと思うのであれば、なんとも貧しい発想だな・・・と我ながら悲しくなります。


でも、そうするしか無かった。

そうやって必死に生きてきた。生かしてきた。そう言う人は居るはず。



恐らく認められたかったのは親なのです。特に母親。

1番最初に触れる他人である親に認められなかった私は

認められる実感・喜び・温かさ・・・そう言ったものを感じることなく

それっぽいものをずっと追い求めることになってしまった。


とても苦しいです。悲しいです。どこまで行っても満たされることはありません。

満たされた事がないので、満たされた思いが分かりません。

でも多分それは満たされません。

ずっと迷ってきて思うのです。


今まで衣食住を支える人が居ないと生きていけないという意味で人は1人では生きていけない。と考えていましたが

人が幸せに生きていくためには、やはり心を通わせられる人が居ないと生きていけないのだなと思います。


誰かを想う事。それは恋愛でも良い、頑張れって気持ちでも良い、大丈夫?って気持ちでも良い。

認められる事を求めるのではなく、自分が人を認める事。

単純ですが、自分が人を想うだけなので、いつだって出来ます。人に認めてもらうより断然楽です。


誰かを自分の心に招き入れる事が出来たら、それは心の成長に繋がると思います。

(自分を認めてくれる人しか招き入れられないなら、そもそもハードルが高い)

自分の事でいっぱいだった心に、誰かの事を想うスペースを設ける。

その誰かが占めているスペースを大事にする。

心の中の他者を暖かく守っていく。そんなイメージはとても心が満たされる。

自然と自分にも優しくなっていく。


今まで求めていた「目に見える形で人に認められる」とは形が変わりましたが

満たされるという点で穏やかになりますし、結局の所認める事で認めてもらえるという事はあります。


ただただ認められたいだけで、自分がどうしたいのかも、どうしたらいいのかも分かっていなかった、あの頃。

自分の事にも興味が無く、ただただ生きているだけの存在で、無視されてきたように自分も自分自身を無視してきたけれど、


まずは誰かを思ってみる。

私の場合は夫や義家族ですが(実家族は怒りが湧いてくるので考えない)

喜ぶかな?とか、どうしているかな?とか

最初は自分のためでも良いでしょう。

それが思いやりと言う行動に繋がり、温かさが返ってくる事になる。


寒々とした日々から、心が温かくなる血の通った日々へ。


きっとそうした心を育てる事に成功出来れば、もう寒くないと思うんです。

冷たい人間だと思わなくて良いと思うのです。

寂しい人間だと嘆かなくて良くなると思うのです。抱え込んだ寂しさを

全ての人を敵だと思わなくても良くなると思うのです。


コロナで殺伐さが一層増しています。

そんな中、誰かの事を思いながら、物理的な距離を取るって心が温かくなるものです。



大勢の人の中で何故か感じていた強烈な孤独感。誰とも繋がっていない違和感。

本当は誰とでも繋がれる。すぐに。孤独な人間など居ない。

ただ、少し怖がりな人間が多いだけなんだろう。



ちょっと世界の見え方が変わってきた今日この頃。

寂しくなんてないよ。

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