優しさは等価交換じゃない

物質的な豊かさは等価交換だけど、

優しさはただ受け取って良いんだよ。ただただ受け取ってくれるだけで嬉しいという人が存在するよ。


何かを条件にして頑張りを強要されたり、

顔色を伺わないといけないような状況で選択の余地がなかった人は

ただただ優しさを受け取る、それが困難だったりすると思うのです。


何かを差し出さないといけない。

認められるために頑張らないといけない。

これはプレッシャーをかけられているんだ。


きっと与える事も与えられる事も慣れている人からしたら

何故そんなに疑うのか?と思う事だと思います。

でも条件付きであったり、等価交換を強いられてきた人からしたら

「そんな事はあるはずがない!」レベルの話。

(私は思いっきり疑っていました、優しくされるのが恐怖でした)

だってそんな優しさを受け取ったことが無いから。分からないのです。


生活に困窮してしまう人たち、精神的に病んでしまう人たち、非行に走ってしまう人たち、そして以前の私もですが、

我慢の器ばかり大きくなって、優しさの器が壊れてしまっている。

どうして良いのか分からないまま、大人になってしまった。


まずは与えられることに慣れて優しさの器を大きくする事。受け取る事に自信を持つこと。

私なんかが受け取って良いんだろうか・・・?って疑わなくて良い。

疑わなくても良くなるまで、受け取る。

私なんかって価値観は環境で作られたにすぎない価値観だから、与えたいと思う人がいるのだから、ありがたく受け取る。

(勿論優しさの種類は見抜かないといけませんが)


「愛されたかった人生でした」

誹謗中傷が原因で自殺に至ったとされる方の言葉。

人は困難が続くと、優しさよりも非難の方を信じてしまいます。

だって経験上、非難の方がリアルだから(きっと辛い事も多かったんじゃないかな、その分優しい人だったのでしょう)

もともと人間は疑い深い生き物だから。

疑って危険を避けていく方が安全だから。

でも、信じたいのが悲しいかな、人の性でもある。


「拒絶される事」に慣れる人間などいません。

どんなに偉くなってもお金があっても、気持ちは肩書きやお金で等価交換出来ません。

皮肉ですが、等価交換出来るアイテムと精神的豊かさは交換できないと言っても過言では無い。

何かを手に入れたとしても、そこに熱や重みが無いと、また等価交換出来るものと交換していくだけな気がします。


今、世の中は批判が多く、実態の分からない人から暴言を吐かれたり

通り魔事件のような事が日常茶飯事です。


その人たちもきっと優しさを知らない孤独を抱えた人たちなのだろうと察します。


でも場所が変われば、優しさに溢れた人は存在していて

先日公園で夫婦でのんびりと食事を取っている際に、楽しそうな家族連れやカップル、1人で満足そうな人を見ていると、

この世に悪意なんてないんじゃ無いかという気持ちになりました。


あぁ・・・知らなかっただけなんだな、こんな世界があるなんて。

信じたくなかっただけなんだな、こんな優しさが存在するなんて。


優しさを知るためにも、優しさを受け取る、これは今私が行なっている事です。

疑わずに、受け取る。

それは即ち「ここに居て良いんだよ」と言われる事でもある。

やっとで私は存在していて良いのだと、思えるようになりました。


もう逃げなくて良い。

ここにいても良いよって、言ってあげよう。

自分に。


器が大きくなったなら、今度は与えよう。

きっと見返りなんていらないよって思えるよ。

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