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水谷里恵 人生ヒストリー(ちとながめ)

こんにちは!水谷里恵です。

はじめましての方も、そうでない方もいらっしゃると思いますので、改めて自己紹介も兼ねて私の人生ヒストリーを書こうと思います。

どうして人生ヒストリーを綴ったかというと。。。
ある人から聞かれたんです。


りえちゃんって笑顔で、 私より子育てとかも上手そう。見てても悩んでるなんて全然思えない感じ。でも、看護師さんから心理カウンセラーに転身したのも、子育てでつまづいたって言ってたでしょ?
人間関係でも悩んでたって。
どうして悩むようになったのかなぁって、ふと思ったの。

って。

つい数年前の私は、人と関わる仕事をしているのに人と関わるのが苦手で、人を信じれなくて頼るのが苦手。でも、負けたくなくて陰ながら虚勢を張る。

何をするにも自信がなくて、
否定されるのを極度に恐れていました。
子育てを始めてからは人の目がさらに怖くなり、スーパーのお惣菜さえも「出来合いの物を子どもに食べさせるなんて…」と言われていそうな気がするほど、人目を気にして買えなくなってしまったのでした。


否定されないようダメさがバレないよう、必死に笑顔で仮面を作って生きる毎日。
私は、何をやっても中途半端でダメなやつ。あの人の様にはうまくいきっこない。どうせ何もちゃんとできない。と、生きてきましたから。

今も気持ちが揺れて、周りが輝いて見える時もあります。けれど、その気持ちから背かずに自分の声を聴いてあげて、置いてけぼりにしないようになったからこそ、立ち上がりも早くなりました。


自分の1番の味方になり、
自分自身が好きと言えるようになりました。
これが何よりも大きい。

では私はこの数年で、どうやって考えどう変わっていったのか。

私の人生を小さな頃から紐解いて、人生ヒストリーとして綴っていきます。綴っておくと自分自身も俯瞰してみれるし、そして面白いことに私の記憶は、本当にあいまい。


そうです。
記憶は、700% ウソ

そんな私の記憶の中を紐解き綴っていきますので、
読んでいただけたら嬉しいです^^




幼少期の中間子あるある

まずは、私が産まれた時のことから。
私は4人きょうだいの2番目として、寒い冬の日に産まれました。(と、聞きました。)

母が病院から見た外は、雪が降り積もっていたそうです。

実は私、逆子のまんま自然分娩で産まれたそうなんです。今は、絶対にない…想像できない。。

よく元気に産んでくれたなぁ…

自分自身が3人出産し、母の凄さを身に染みて感じることに。本当に感謝でいっぱいです。元気に産まれるのは当たり前。そんなことはないんですよね。

そしてこの逆子出産神話は母の武勇伝となり、
色んな場面で聞かされていくのでした(笑)

パンチな父…


そんな感じで

頭から出てこずに足から産まれるという、
誕生0日からフリーダムな私。

9歳下の妹が産まれるまで、年子の姉と2歳下の弟といつも誰かと喧嘩して過ごしていく中でも、いつも誰かといるのに「ひとりぼっち」を持っていたように思います。

何で私の味方はいないの!!
何で私のこと分かってくれないの!!

って、思っていたんですよね。


それはなぜか。
弟と喧嘩をすると姉は、
必ず弟の肩を持つんです。おい!

100%弟が悪くてもです。ええ。
(これは、姉本人も自覚あり。ひでぇ。)

で。
姉と私が喧嘩をすると、母は「それは〇〇ちゃんが正しいわ」と姉の意見に賛成していたんですよね。

うぉぉぉぉぉぉぉいヽ(`Д´)ノ またや!!
なんでよぉぉぉぉぉ!!!

まぁ、自分の小さな頃の記憶なのですが、小さいながらに常に誰かと比べる状況で、寂しかったりモヤモヤした気持ちを持っていたと思います。
中間子あるあるなのかな?


そんな気持ちを感じたくなかったのか。

どうやったら1番になれるのか…
1番に認めてもらえるのか…

と、自分の気持ちよりも、
周りを優先していくようになりました。

自分では無意識です。

よくよく周りを観察してズル賢く、怒られないように。いいところを摘んで。なので小さい頃から周りの顔色を伺ったり、姉の真似をすることが得意でした。

このポーズがお気に入りの様子   



心を学んでよく感じますが。

小さい頃の思いや経験って大人になっても自分の考えるベースです。そしてそれは、大人になってもです。


と、考えると…

私の年季の入ったモノの捉え方は、小さな頃に出来上がっていたんということ。だからこそ、今の自分を知るには、記憶を巡って小さい頃の自分を知る。これ、すんごーく大切。心の仕組みを知った今、よく思います。

さぁ、そんな幼少期を経て、今にどう繋がっていくのか。もう少し幼少期の話は続きます。




【幼児期】周りは気にしない、私は完璧で最高!!


9歳離れた 妹が産まれるまで3人きょうだいで過ごしていた私。
さらにさらに自分の幼児期のことを思い出すと…

今も背は小さいですが、幼少期の頃から、ずっと小さかったです。
年子の姉とかなり差がありました。

幼稚園の2年間いっつも同じ男の子とペアで背の順は 1番前。ちょーーーちっさかった。小学校入るまで 100cmなかった。

常にSくんとペア

そんなチビりえ、
幼稚園でリボンを持ちダンスをしたことが、イチジクを盗んで食べて怒られたのと同じくらい鮮明に覚えている、幼稚園での記憶。

チェッ チェッ コリッ♪
チェッコ リッサッ♪
ナンチャラ ランランッ♪
チャッチャ ランランッ♪
オーラン チェチェッ!!

(何て曲かは分からん)

順番が来て、前に出る。
ドキドキドキ...けど、やる!!!
周りが見えないくらい自分に入って必死にダンス!!

「私が1番 じょうず!」
「私が1番 ステキ!」

そんな感覚だったような気がします。

おかっぱの見本


そう、幼少期の私は、周りのこともあまり気にせず自分に集中して、好きなことを全力でやっていた。そんな自分を思い出しました。

飾らずに自分を表現することが、昔は当たり前だったんですね。

            

大好きなトシちゃんのプロマイドを買ってもらってご満悦の正月の私。好きに一直線でした。
何をしてもどんな自分でも完璧で、愛される存在。それが当たり前だった幼児期のことを思い出すと、ちょっぴり 恥ずかしような。でも、何だか嬉しいような。

そんな私が、私の中にちゃんといました。

小さな小さなあの頃の自分。
昔の私を思い出すと、今とは別人のような私がひょっこり姿を現します。どんな自分も愛されていて価値がある。これを強く感じることができるのでした。




【小学校入学】里恵ちゃんOPPの巻/私は助けてもらえる人


3人きょうだいの真ん中、常にみんなの様子を伺いつつも自分大好きで育ってきた 私。

とうとう、小学校に入学しました。

帰りは町内が同じ女の子といつも帰っていたと思うのですが、同じ時間に終わる時は、時々廊下で姉が終わるのを待っていました。たまーに、姉の担任の先生が教室の中に入れてくれたりもして。

そして、なんとその先生。姉と2人並べてまつ毛の長さを計っていたw
30㎝の物差しで真剣に測る面白い先生でした。そんな記憶もうっすら覚えています。

そして私、小さい頃からすごくお腹が弱くて.....
常にOPP(おなか ぴーぴー)だったんです。

小さい頃には入院したこともあったそうな。
だからなのか毎日起きたら「はい、トイレ行きなさーい」って、母に言われて行くのが日課でした。たぶん、失敗しないようにコントロールしていてくれたのかなぁ。なんて、思ったり。

けれど、学校で お昼を食べた私のお腹には 朝の作戦虚しく......

ギュルギュル…..
ギュルギュルギュルルルル......

小波と大波が順番に押し寄せてくる.....
どうしようどうしよう…
チビの一年生には家がいつもより遠く遠く感じる.......

ガマンのガマンの末にとうとう、道端で出てしまいました。一緒に帰っていたお友達も、どうしていいかわからずアタフタ.....私、悲しいやら恥ずかしいやらで道路の向こうの茂みまで必死に歩いて隠れました。

もう消えちゃいたい…
はずかしい…

すると、後ろからたくさんのお友達と帰ってきていたのが

でした

その時、何て言葉をかけてくれたのか覚えていません。けれど、鮮明に覚えているのは、私が他の帰っている子供達に見えないように、姉と姉の友達数人で壁になってくれたことでした。男の子もいた記憶…

「こっち見るなー!!!」
「バイバーイ!!」

そうやってみんなで声をかけてくれている間に、母が自転車で迎えに来てくれました。今考えると、ケータイもない時代、誰かが母に知らせに走って家に行ってくれたんだなぁ、と思います。

ちょっぴり恥ずかしい思い出だけど、
私にとっては悲しい思い出ではないんですよね。

「くっさー!!」
「何やってんのー!!!」

みたいな、言葉をかけられた記憶は全くなくて。むしろ、みんなの優しさを感じる記憶、消えちゃいたいほど悲しい時に助けられてすごくホッとした記憶です。

私はいつも誰かがそばにいてくれて誰かが、助けてくれる。
これは、心理学を学んでいるときに思い出した記憶でした。

自分のやりたいに進むとき、時には、1人で頑張らないといけない時もあります。けれど、心の奥にこんなあたたかな気持ちがあると私、無敵だなぁなんて、思っちゃえるのです。

どんな私も助けてもらえる。
どんな私もさ愛れている。
感謝でいっぱいの記憶が詰まったOPPのお話しでした。




【小学3年生】やっとお姉ちゃんになれた

色々とありながらも小学校生活を送っていた3年生の春
ある朝、母から衝撃の告白を受けます

「りえちゃん、あのね。お母さん、お腹に赤ちゃんがいるの」

。。。。???

えええええええええ!!!!!!

どっかーん!!(脳内)

それはそれは衝撃で、ただただビックリ!!!
日に日に大きくなっていく 母のお腹

母のお腹の左をトントンとすると右側をポンっと蹴るのが可愛くて、母のお腹を良く触り、グオングオン動いているのを見るのが楽しみでした。


秋のはじめの朝、目を覚ますと母は家にはいませんでした。小学校から全速力で走って帰り、帰った時には女の子が産まれていました。
私は妹が産まれるまで3人きょうだいの2番目で、2つ下の弟には、姉がいるそんな感覚だったので、妹が産まれてはじめて本当のお姉ちゃんになれた気がしました。

だから初対面の時はドキドキのワクワク!!着る服も吟味して吟味して…着替えて 病院へ向かいました。ガラス越しに見える2330gの小さな赤ちゃん。あまりにも小さくて、周りの赤ちゃんが異様に大きく見えました(笑)私の小指の爪と親指が同じ大きさで本当に小さかった。

私の、小さな小さな妹
私を、お姉ちゃんにしてくれてありがとう。

心底 思いました。

私の気持ちに、とても大きな変化をもたらしてくれた妹
そして超!賑やかな6人家族が始まりました。




【小学高学年】何がなんでも姉には負けたくない!!


小学校の高学年となり、学校の催しでも中心として動くことも多くなってきます。

私の活躍の場、それは運動会でした。
「絶対に負けない!!!」
「誰にも1位は渡さん!!!」

    爆走


いやぁ、闘志むき出しでしたねぇ。
ゴールテープを1位でぶっちぎるあの爽快感たまらんかったです。
運動会は、私の輝ける場所だと思っていました。

でも5年生の時、大好きな運動会で
どうやっても1番になれなかったことがあります。

それは
相手の組の応援団長がだったからです。


私が5年生、姉が6年生。
一緒の応援団になりたくて志願したけど違う組になり、姉の組と戦うことになりました。色んなアイデアを出して仲間と楽しそうに応援する姉。担当の先生もすごく楽しそうで 熱が入っている。
応援合戦では、PTA役員の方が採点するのですが、見事に惨敗しました。
総合結果も、姉の組が優勝!!満面の笑みで 仲間と喜んでいる姉を少し遠く自分の組から眺めていました。

帰ってからビデオに納めた姉の活躍する応援の様子を、母も嬉しそうに見ていました。


私も、あの輪に入りたい。
私も、一緒に喜び合いたい。
本当は、私もそこに入るんだったのに.....

私は、あの楽しい輪には入れない
私は、いつも2番手
私は、いつも1番にはなれない!!!
キーーーーー!!!

自分の種目では負けん気を爆発させて1番であっても、

姉よりも いっぱい活躍したい
姉よりも 輝きたい
何がなんでも!!!
お姉ちゃんより!!!!

という、姉への対抗意識がムクムクと膨らんでいました。それだけ姉のことが大好きで憧れで、キラキラと笑う姉が眩しかったんですね。


そして
姉を特別に思っている母を振り向かせたい、姉より褒めて欲しい。
そんな、気持ちを心に秘めて過ごしていたんだろう、 負けた悔しさと、姉のキラキラ楽しむ姿と相まった、負けず嫌いの私の少しほろ苦い記憶です。

.......

でもよく考えたら。

1番で走っている写真が残っているってことは、ちゃんと見ていてくれていたってことですよね。しっかり見ていないと、こんな躍動感ある写真撮れないよね。

当時の私が欲しかった言葉は、もしかするとなかったかもしれない。自分の思う言葉じゃなかったかもしれない。

そう。
ただ、それだけだったのかもしれない。


でも事実は、
写真で走る娘の姿を収めるほどちゃんと見ていてくれていた。
私は、愛されていた。

.....

あはは!
やっぱり、記憶ってあいまいだw




目立って人と違う自分が、素晴らしい?


誰よりも1番になりたかった。
1番になって母に認めて欲しかった、小学校の私。

そんな私ですが、こう思っていたのかな、と。

人と同じことしていては目立たない!!!!

なので大好きな運動でも、あまり女の子がやらないだろうコアな部分を攻めます。

習い始めたのは、剣道と少年野球
剣道は、近所に道場があって引っ越してきた男の子がやっているのを知って、興味を持ちました。そして、父が昔やっていたということも大きかったと思います。

少年野球は、2歳下の弟がやっていたけど女の子は私だけ!!!
そんなポジションを狙って始めました。
持ち前の脚力で盗塁は100%成功w いやー、走った。

女の子がやるようなピアノをやるくらいなら外で体を使って、存分に自分を解放できる剣道や野球を選ぶ!!!そんな思いになったのも男の子にも誰にも負けたくない!という気持ちと、運動が好きだった両親の気を引きたい一心でした。女々しい、弱い自分では振り向いてもらえないと思っていたのだと思います。

だから、父がやっていた剣道を選び、弟がやっていた野球を選びました。

月曜日から金曜日まで夕方は剣道
土曜日は昼から野球、夕方から剣道
日曜日は野球

なにこのスケジュール......

剣道では女の子だからと、道場の先生が赤胴を選んでくれて、両親も大喜び。その顔をみて私も嬉しい。

道場でも1人だけ赤胴。密かにムフムフしていたw
目立ちたい。他の人より違う自分がいい。
強い自分でいたい。
そんな自分が 素晴らしい。
そんな自分が 認められる。

そんな気持ちを大きく大きく膨らませていった私。けれど、色んなことが、少しずつずれていって崩れていくのでした。



怒られたくない殴られたくない/上手くなりたいからの心の変化


野球少女で剣道少女となった私。
剣道を始める時「剣道をやりたい」と、母に告げた際、

・どんな日でも、自分で行くこと
・辞めずに頑張ること

と、約束をして行かせてもらうことになりました。雨の日でも、寒い日も道着を着て自転車で1人で通いました。稽古でヘトヘトで疲れた後に、車でお迎えに来てもらっている子達が羨ましくもありました。

でも、約束だから。
お母さんとの約束だから...と、自転車で通いました。

小学校6年生になった頃、剣道は夕方の部(子供の部)から夜間の部 (大人の部)へ移動になりました。

大人の部は警察の方々や、学校の先生たち、いわゆる剣道ガチな大人の方々に稽古をつけてもらう。夕方の部とは雰囲気も、やり方も激変しました。そして、剣道7段の先生(73歳のお師匠さん) の態度も激変。今言えば本気度が増して、熱量が怒りになって指導していたんだろう。昔の人だし。(知らんけど)

でも当時は分かるはずもなく、弱腰が少しでも見えたもんなら怒鳴りながら近づいてきて、竹刀で力の限りぶん殴られ倒される。面や小手を着けていたって大人の力ずくは本当に痛い。それが怖くて怖くて「上手くなりたい」より「怒られたくない」「殴られたくない」の一心で稽古をしていました。

今思い出しても怒りながら詰め寄ってくるお師匠さんの顔は震えがきます。毎日の稽古で足の裏はヒビ割れて毎日テーピングをガチガチにし、受け身が悪いと防具の外に竹刀が当たり体にもアザが沢山できていました。


自分が、ダメだから
自分が教えてもらったことをちゃんとやれないから
こんな弱腰だから試合で勝てるわけがない

負けたらまた稽古が厳しくなるに決まってる
ダメなやつって思われる

怖い。。。でも、弱音なんて吐けない
自分で行くって決めたんやから
お母さんと約束したから...

そんな負のループをグルグルと回り、最後はそこから抜け出せなくなっていきました。

けれど。
そんな苦しい稽古でも私を支えてくれる存在もいたんです。
夜は危ないからと一緒に帰ってくれる警察官の方や、お姉さん。
私は、本当に恵まれていた。

けれど、その優しさを自分を苦しめる材料にしていきます。




地球が滅びても生きていける人


今日は、少し脱線し父との話をします。
そういえば、書いてなかったなぁ....と思って。

私の父は、好奇心の塊で何でもやってみる人。料理、編み物、花いじり
ゲーム、キャンプ、DIY…   でも、かなり無計画に、半ば力づくで突破しようとするので、料理ではよく手を切ったり火傷している人でした。
そして鍋や、包丁のせいに していましたw

失敗してもめげない、諦めない。またやるやるやるw
その精神で、叩き上げで代表取締役まで上りつめました。

野生人で野原に行けば小さなナイフで、笛やソリなど簡単に作ってくれました。「あの木は 〇〇だ」「この草は △△だ」と名前を教えてくれて、海では素潜りをしたり、山では野草を探したり。地球が滅びても父は生きていくと、本気で信じています。

私がオオスズメバチに 頭を刺された時、父はとっさに私の頭の傷口から蜂の毒を吸い出してくれました、虫歯とかなかったから 良かったものの…
(マネしてはいけません)けど、私は大事に至らず済みました。
本当に野人。


日曜日の夕食後は父 対 子供達でプロレス開催!!汗だくでセコンドに水を置いて必死に父に向かって行っていました。笑顔の父が大好きでした。

そんな父には鉄の掟がありました。
それは、休みの日は必ず 家族で過ごすこと。お父さんの言うことはぜ〜ったい!!!と言う感じだったので、何も疑問にも思わずに過ごしていました。

そんな中、ある時小学校の友達が「日曜日、私の家に遊びにおいでよ」
と、誘ってくれました。え!?日曜日って友達と遊んでいいの!?あまりにも衝撃だった私。恐る恐る父に約束したことを告げます。

すると、みるみるうちに父の顔が般若になり

「いますぐ断れ!!!」
「休みの日に、友達と遊ぶなんてあるか!!」
「許さんぞ!!」
「いい加減にしろ!!!」

ものすごい勢いで叱責され、あまりにも怖くて泣く泣くお友達に断りの連絡…どこかへ出かける時に行きたくないと拗ねた態度をとっても、ものすごい剣幕でした。

「行くやろ?」
「分かったか?」
「はいと言え。」

「返事は!!!返事しろ!!!」

怒る父の横には何も言わず黙っている母。母も私のすることに呆れているんだろう。と、その時は思っていました。


ですがこの記憶は後々、父なりの愛情だったことに気づきます。
父は、農家の家庭で育ち手伝いばかりで家族みんなで出かけることはなかったそうです。だから、自分が家庭を持った時には家族で過ごす時間を沢山持ちたいと思っていたそう。

ええ、かなーり強引だけどw

父なりの愛情だったことに気づけました。
私の意見は、通らない
私の意見は、必要ない
そんな私の記憶の裏にはちゃんと父の愛情がありました。


そんな、やることも子育てもフリーダムな父なのでした。




片頭痛もちでウワサ話が好きな人


つぎは、母の話を。

母は、自称 九州男児を半歩後ろで支える妻
ええ、ディスってはいませんw

今でも、
「お父さんが若い頃はねー」
「お母さんがなんでもしてあげたわー」なんて話も出て来たり....

他の人から見るといつも笑顔で元気そうな母ですが、家では偏頭痛持ちでよく横になっている印象。なので以前は、母の顔を思い出すとなんだかしんどそうな表情が浮かんでいました。

母がしんどい時は決まって、薄暗い台所に冷えきったパスタと作られた味のする缶詰のミートソース。それを食べる時、しんどい母をどうにもしてあげれられない無力さと、もっと私の寂しい気持ちをわかって欲しい、私たち子どものために美味しいご飯を作って欲しい虚しさとが、ぐちゃぐちゃになってパスタとソースと混ぜ混ぜに食べていた記憶が、以前はありました。

母のしんどそうな顔、悲しそうな顔を見るとどうにかしてあげたい気持ちがあっても、小さな私にはどうにもできない。そんな心の葛藤が小さいながらにもあったのだと思います。


あと。

母は、うわさ話が大好きw

ピーピーピー!!

まぁ、これはご近所のおばあちゃん達の影響も、かなりあると思いますが…それをまー、根掘り葉掘り良いことも、悪いことも我が子に伝えてくれるんですよ(笑)言うところがなかっんだよねぇ...

だから、私が知っているその人の印象と母が話すその人の印象が、かなりかけ離れていることがありました。

なので、母の話をずっと聞いているうちに私は、こう思うようになりました。

「大人の人って、 何 考えているか分からん。」
「私も、違う所でこうやって言われているんだろうか....」
「大人は、面と向かって伝えあわないんだ。」



勇気出して意見が言えればよかった。


もちろん、今ではそうも思います。でも、その時の私は これで精一杯だったんだと思います。だって反論して、母に怒られるかもしれない。反論したら母を悲しませるかもしれない。悲しい顔を見たくない。嫌われたくない。私を否定しないで欲しい。私を放って置かないでほしい。

母に捨てられるくらいなら
悲しい顔にしてしまうのなら
小さな私は、自分の意見を言わず母の話をただ黙って聞くを選びました。

けどね。
これは、良い面もありました

母は、何て言って欲しいんだろう
何を私に分かって欲しいんだろう

そんな事を考えながら、話を聞く癖

これは、前職の看護師として患者・家族の話を伺う時と、現在のカウンセラーとしてクライアントの話を伺う時に、とても役立っています。

自分の価値観や信念を形作る核となる部分 
ちょっと辛い過去だったりもしますが、
見方を変えると私にとって今につながる大切な価値でもありました。



お母さんごめんなさい、剣道辞めたい。



2つ前に書いた剣道の話の続きです。

中学生になるとき私は、部活動を何にするか考えました。
走るのが好きだったので陸上か。。。顧問の先生も声をかけてくれていました。だけど…道場にも通っているので、剣道か。。。その2択。

道場の 先生には、
「部活のような、生半可な剣道はやらない方が、まし。」
「そんなのに、入るな。」

と、何度も言われていました。どんだけ昭和ジジイや。

そうやって悩んでいる時にアドバイスをくれたのは、道場から1人で自転車で帰っているのを知って一緒に帰ってくれていた、男の警察官の先生と女の先生でした。

大きな大会には、学校の剣道部に所属していないと出られないから剣道部に入りなさい。あなたなら、道場と部活両立ができるから。おじじ(師匠)には、うまく言っといてあげるから。

迷っていた背中を押してもらい私は、剣道部に入部しました。

学校では週に数回の朝練と、毎日の放課後の練習。学校から帰ったら、道場での練習。なんやこのスケジュール…本当に、剣道漬けの毎日でした。
その結果、市の大会で個人優勝し県大会でも勝ち進めることができました。

でも、どうやっても何をやっても自分の剣道に自信がなく、毎日怒られることに怯える日々。練習終わって帰宅し自転車を片付ける時、空を見なが「いつまで、こんな毎日が続くんだろう...」と、思うようになりました。 


毎日、夕方6時になると気持ちが苦しくなって体が動かなくなる。
そんな、なかなか準備をしない私に毎日「行くんやろ?どうすんの?」「はよ、しなさいよ」と母は、いいました。

「行きたくない」 と、いうと「またや!!あんた、約束何やったんよ。」と、毎日毎日繰り広げられるやりとり…

他のきょうだいもうんざりしていたそうです。(後日談)
行かないといけないのは重々承知でした。行かなかったら弱くなる勝てなくなる。そしたら試合にも出られない。出ても負けるだけ。そしたら、また厳しくされる。

怖い

けど、行かないとお母さんとの約束....

たとえ、1日行けたとしても、その日は厳しくなかったとしてもまた、次は厳しいかもしれない。上手くなりたいなんて気持ちはとうの昔にどこかにいってしまっていて、毎日毎日をやり過ごすことで精一杯でした。そして、とうとう剣道に行けなくなりました。

「お母さん、ごめんなさい。剣道、辞めたい。」

そう伝えたとき、母は言いました。

「辞めるなら、1人で先生に言って辞めてきなさい。」

道場に、1人行きました。
心臓が口から飛び出そうなほど緊張の中、みんながまだ来ていない早い時間に行って先生に伝えました。

「辞めるんか?」

「....はい。」
怖すぎて言葉も出ない。

「そしたら、部活も辞めるんや。
 あんな剣道やっていても、意味がない。」


何て返事したのかも、自分の剣道の防具を持って何を思って帰ったのか全く覚えていません。でも、もう行かなくていいと、思ったことは鮮明に覚えています。

部活をやめようか考えていたある日、
家に道場の女の先生が来てくれました。

「先生から聞いたよ。」
「部活だけは、絶対辞めんでいいよ。」
「先生のことなんか 放っといたらいいねん。」
「大丈夫やから」


そう言って、一冊の剣道の本をくれました。

その後も、
道場に来ていた他の先生からもお手紙をもらったり年賀状を頂いたりすごく嬉しかった。たくさんの方に支えてもらっていました。けれどその優しさと同じかそれ以上の恐怖があり、剣道を続けて試合の時に道場の先生に会って何か言われたらどうしよう。辞めろって言われたのにやってたら、何て思われるんやろう...

怖い 会いたくない。どうしよう... 怖い。

続けるという選択は私にはありませんでした。

たくさんの先生に何度も、
辞めるなもったいない。
道場で待ってる。道場でなくても、剣道辞めなくていい。
あなたなら大丈夫。って、言ってもらっていました。
けれど私は、部活の剣道も辞めることにしました。誰にも相談できずに、辞めました。

女の先生が来てくれた時に泣きついてでも、苦しい胸の内を話せたら
何かが変わっていたのかなぁ。なんて、思ったりもしますが...
あの時の私は、すでに誰かを信じることも、自分を信じることもできず、頑張りきらなかった自責でいっぱいで、誰かを頼る、弱音を吐く選択肢なんて考えられなく、あれで、両方辞めるだけで精一杯でした。

あんなに応援してくれている先生たちの期待に答えることができなかった私は、みんなの優しさを踏みにじりみんなを裏切った。

ここで自分の価値観が確実なものになりました。

私は、最後まで踏ん張れない。
私は、頑張りきれないやつ。
私は、人を悲しませてばかりのやつ
私は、人をガッカリさせてばっかりのやつ。

私には何もない。何も残ってない。


その後、話しやすかった先生が、吹奏楽部に誘ってくれても音符なんて読めないし。 1ヶ月も経たないうちに辞めました。
一つ上の姉に言われました。「コロコロと部活変えるの、やめてよ。私のクラスに、吹奏楽部の子 いるんやから。」
うーん、確かに…と、何も言えませんでした。心の傷エグるよねぇ笑


その後は、陸上部に入ったけれど名古屋への転校の前に辞めました。
結局、居辛くなったんです。
ああやっぱり、私は何も続かない。
私は、中途半端なことしかできない。
出来損ない。
みんなに迷惑かけてばっかり。
私には何もない。

部活もなくなり何をしていいかも分からない。
そこからの記憶があまりありません。
そしてその後に今もなお、「いや〜、酷かったな。」と、言われる家族の中で
1番の大問題を引き起こすのでした。




今までしてこなかった反抗と、「何もない」から選んだ非行


今でも「いや〜、酷かったな。」と言われる私の起こした行動は非行と、相当な反抗です。


自分がそうだったから、よくわかる。
子供が非行に走るのは「ヒマ」=居場所がないから
そしてその「ヒマ」を「自分は、何をやってもダメだから」と、最終的に、選んでると思います。あくまで、私の意見ですが。

何もすることがなくなると、いつもは見向きもしなかった物に目がいくものです。男友達が吸っているのを見てどんな味がするのかな?どんな感じなんだろう....と、本当に興味本位。

夕飯前に、「買い物行ってくる」と、言って近くのスーパーの向かいの自販機で買いました。めちゃくちゃドキドキすることもなく「ふーん」と、買いました。あ、買っちゃった。そんな感じ。美味しくもないし、よく分からない。

誰にも見つからないように!!という感覚も、ありませんでした。本当に深くも考えていないし、その時楽しければいいや。そんな感覚だったと思います。どうせ、自分はダメな人間。誰も心配もしない。そんな気持ちが心の底にあるから考えもしなかったのかもしれません。今となっては、そうやってでも両親を振り向かせたかったんだと分かります。



そんな感じだったのですぐ、学校にバレました。ええ、すぐにバレましたw担任の先生に放課後、生活指導室に呼び出され色々と話をして自分から言いました。

その時に、「なんで、お前なんや...」と、先生が頭を抱えていました。
で、その後いろんな組で、私と同じ子がいっぱい出てきて結果、私の学年はエライコッチャになりました....

先生、ごめんね。

親が呼び出され三者面談が開かれ、我が組は多すぎて集団面談。
その後、全校集会が開かれて学年集会も開かれました。

母に、学校から連絡が入った時すごい勢いで怒られはしたけど、あまり記憶にないです。母は最初、父には隠しておこうとしたみたいだけど、タイミング悪く学校からの連絡を父が受けてしまい(笑)
あっさり耳に入りました。

こういうことって、バレますね。父の逆鱗にふれ、そこから正座で説教の毎日でした。内容は全く覚えていません(ヒドいw)怒って話している父の顔だけ。足が痺れるのが毎日辛かった。

けど、一つだけ。

父が「早く見つかって良かったな。」と、いいました。その時はどういう意味で言っているのかさっぱり分からなくて。でも大人になって親になった今は、父の言葉の意味が少し分かる気がします。

親って、とても偉大だと思います。今ならそう思えます。
我が子が中学生で非行に走ったら私、大丈夫か?親になった私は、父のように言ってあげられるかな....



その時の私は、母のいうことを全く聞かず、暗くなっても帰って来ず、言われたこと全てに反抗し、時には母を突き飛ばし浴室のガラスを足で蹴って割り、父の説教を鼻で笑い毎日を過ごしました。

そんな中、母の言葉とある告白で私の反抗期に終止符を打つ日が来ます。




お母さん、死なないで/母のために生きると決めた瞬間


反抗し続けた毎日でしたが、母の言葉とある告白で私の反抗をやめる日が来ました。


いつものように母と言い合いをしていた時、母が「もう、知らんわ。」と家を出て行きました

晩ご飯の時間だったかな...
もう外は暗くなっていて母を追いかけました。家の近くの堤防、薄暗い少ない街灯の花の咲いていない桜並木を母が歩いていました。私が近づくと母は、言いました。


「もう、おばあちゃんのように死にたいわ」


は?どういうこと?そのまま、思ったことを母にぶつけました。
「どういうことよ?」
「おばあちゃんと一緒って何よ。」
少しして母は言いました。私が想像もしない答えが帰ってきました。

「自分で 死ぬのよ」

そのあとのことは全く覚えていません。母に何を言ったのか、母が何を話したのか、どうやって帰ったのか覚えていません。でも、この瞬間に私の反抗期は終わりました。

終わらせました

小さい頃からの

わかって欲しかった
許して欲しかった
聞いて欲しかった
認めて欲しかった

どんな自分でも許してほしい
どんな自分でも笑って見ていて欲しい

いろんな気持ちを全て封じ込めました。

こんなことしてたらあかんわ。だって、こんなことしていたら、お母さんが、死んでしまう。私が、お母さんを殺してしまう。そんなん無理や。
お母さん、ごめんなさい。お母さん私、お母さんを苦しませたりしない。

だから、死なないでそばにいて。お母さんごめんなさい。


ごめんなさい。



このことを、38歳になって心許す方に話した時、「もっと大きいことしたのかと思った!」と、笑ってくれたことがありました。当時の両親の愛情を受け取り、当時の自分を許し、解放させた瞬間でした。

今思うと、その時までは、反抗期自体も自分の汚点とし小さい頃の記憶と一緒に心の中に閉じ込めて感じることを自分で許さず、感じたとしても自分を責める材料とし、誰かの役に立つため、誰かの喜びのため、母が笑っていてくれるためと生きてきたんだと思います。


そして、反抗期終了と同時に、父の仕事の関係で名古屋に転校が決まり、新しい環境で1からスタートしていくのでした。





普通の中学最後の1年/非行少女、ナリを潜める


名古屋に家族で引っ越すことになった中学3年生の春。今までの自分とは全く変わった生活を送ります。

結局、中3の1年間1度も休むこともなく、ふつーーーーーーの、生活を送りましたw ええ、非行なんて何処へやらです。非行少女だった素ぶり全く見せず、タバコを吸っている同級生の横を「あーくさい。」と思いながら素通りしていました。「あ、私もう辞めたから」みたいなw (なんじゃそりゃ)

母は、「りえは、1年一度も休まずに学校に行って、転校したてやのに頑張ったわー」と、言っていました。変わった私を見れて嬉しかったし、中学3年での転校、色々と思うところもあったでしょう...

が。

私あまり記憶がありませんw 
ふつーーに高校受験をし、ふつーーーーに合格し、ふつーーーーに中学校生活が終わりました。

今 思うと。
感情としては、「退屈」「悲観的な姿勢」を意図的に選んでいる感じ。もう色んな経験をして、感情を揺らすこともしんどかったのかもしれない。

仲良い友達もいたけれど1年で離れると思って、適度に距離をとり過ごしていたのでしょう。友達が先生と仲良く話している所を見て、少し羨ましく思うところもありました。
しかし、1年で溝を埋めるのはムリだろう。あー、私の知らない先生との時間があるんだなぁ....私は、あそこには入れないな。と、必要以上に客観視していました。


中学を卒業し、高校生活が始まります。

青春と、甘酸っぱい恋と友達とのケンカと自分の進路を決める3年間。引き続きここも、記憶を巡っていきたいと思います。




高校からの青春と恋の始まり


晴れて高校生になり、高校の中に自販機や売店があることに興奮し(かわいい)少しずつ自分の自由が増えていっている感覚を味わっていました。

電車通学が嫌だったのでそんなに遠くない学校を選び、自転車で通い、部活は、楽しめればいいレベルのバトミントン部を選びました。剣道や、陸上部はもう選ぼうと思わなかったですね。苦しいのは、もうたくさんだったのかな。


部活終わりに友達とマクドナルドに行ったり、西友のレジでアルバイトを始めたり(学校には内緒)ぼちぼち楽しい毎日を送っていました。

テスト明けのカラオケ

そして、高校2年生になる前に進路調査がありました。理系にいくか、文系でいくか。どうする私。。。その頃には、看護師になりたいなぁと考えていたので、担任の先生にも相談し理系に進むことにしました。

2年生になり理系クラスはクラスの女子の少ないこと!!!でも、この少なさが私にとってはあまり人の目を気にせず心地よかったかもしれないです。高校2年生となり、同じクラスになった 男の子とお付き合いすることになります。甘酸っぱぁぁぁぁ....
なんだかんだで6年間も一緒に過ごすことになるのですが、お互い就職し社会人になったタイミングが分岐点となりました。そのままお付き合いが続いていたら、今の自分の生活はなかったし旦那さんとも出会ってなかった。

今考えれば、いろんなことが自分の素敵な未来につながっているのだなぁって、思います。あーーーー懐かしいな。




大好きな親友とのケンカ別れ


高校2年生になり将来のことも少しずつ考え始め、理系に進みなんだかんだでお付き合いする男の子もできて、楽しく学校生活を送っていきました。

入部したバトミントン部でもペアになった子とは親友と呼べるほど、いろんなことを話し悩みを打ち明ける存在になっていました。

そして、そのまま3年生になり、部活もそろそろ最後の試合が迫ってくるという時、一つの案が部活内で持ち上がりました。

ペアを再編成する

正直、なんでこんな時期になって何でそんなこと言いだすんだ?
ここまで必死にやってきたのに。。。
その時、あるペアにそれぞれの実力の差が出てきており、ペアで試合するには難しくなってきていると不満が出ていたらしいのです。当然、全体での再編成という結果となり。

私は、1年の頃からペアを組んでやってきたのでそのままで最後の試合に臨みたかった。話し合いの場でそのことを打ち明けました。でも、ペアの子は自分達だけの問題じゃない、と再編成に賛成しました。

なんで?ずっとやってきたのに...
私と一緒に最後、試合頑張りたくないのかな。
何で、私とのことを考えずにみんなを優先するの?

どうしても納得がいかなくてペアの子と話すことになりました。お互い泣きながらでも、どうやっても話は平行線でした。

「何を考えてるか分かんない」
「自分のことばっかり 言わないで」

とうとう最後には、喧嘩別れで終わってしまい、ここからギクシャクするようになって部活も引退。クラスも棟も違うのでそのまま疎遠になっていきました。


その時の私は、

あぁ、私は 選んでもらえないんだ。
私の気持ちは、誰にも理解してもらえない。
私はわがままだからかな?
私が もっと人を優先できたら良かったのかな?

何で私は、いつもこうなんだろう...
何で、私は人ができていることができないんだろう…

何で私は、頑張りが効かないんだろう

大切な親友との喧嘩別れは、十分自分を責める材料になりました。
大きなシコリとして大人まで残っていくのでした。

高校3年の私が本当に言いたかったこと。
それは、

ペアが離れてしまうのが悲しいほど、すごく大切に思っている。

という相手を大切に想う気持ち、ただそれだけだったんです。

相手に優しく届くように奥の気持ちを素直に差し出す方法を、この時の私はまだ知りませんでした。

その子も、他の友達の子の気持ちもあり、板挟みの状態で辛かったのかもしれない。そんなことを今なら、考えられるようになりました。

でも。
その時の私も、いつもいつも精一杯でした。

青春だなーー。




大学は受けないと決めた真意



色々とありながらも、
球技大会・合唱コンクール・修学旅行・文化祭・体育祭

連日満員の劇


体育祭 仲良し旗作成班


楽しく過ごした  高校生活

理系だけあって 男女混在でわちゃわちゃ楽しみました。

高校3年生になり本格的に看護師になるための受験勉強が始まりました。看護大学や看護学校に強い予備校にも親にお願いして1年間通わせてもらうことに。同じ看護師を目指す友達と一緒に通っていたので、勉強は大変だったけど 楽しかったです。


全国模試を受けて面談で担任の先生に言われました。

「看護師になるってことだけど。」
「国公立大学も 頑張れば狙えるぞ。」
「どうする?」


.........どうしよう。

大学か、専門学校か.....
でも、大学落ちたらどうしよう...
私が 受かるんやろうか....
でも私立大学なんか、絶対に無理やし…

私、大学行きたいの?
専門学校でいいんちゃうの?
お姉ちゃんも看護学校に行ってるやん。

弟は絶対に大学に行くし。
自分は、看護学校でいいんちゃうの...?
でも、大学ってどんな感じやろう...



色々と、自問自答しました。
ここでも誰かに相談はしませんでした。

で、結論。

「私は、看護学校にする。」
「弟も、獣医を目指してるしお金かかるし。」
「早く 看護師になりたいし。」
「私は、大学は受けないことにした。」


と、決めて周りに伝えました。
でも、大学を受けないと決めた真理は。


大学受験して落ちるのが怖かった

落ちて、これ以上自分に がっかりしたくなかった
落ちて、バカにされたくなかった
落ちて、笑われたくなかった

この気持ちを隠して
弟や、姉や他のことを理由にして
大学受験する自分から逃げました。

失敗が怖かったし、自分に自信がありませんでした。



私の心の中には、

失敗する挫折する自分は、
誰からも認められない

そんな自分になるのなら
最初から失敗しない方を選ぼう



という根っこがこの頃はすでにしっかりと出来上がっていました。だから、看護師を目指す友達の大学受験をするのを横目で見ては、「私は、大学は受験しないもん。」「私の方が学力も順位も上やけどあえて選んでないんやもん。」なんて、心の中でひがんでいました(笑)

自分の可能性を信じ、挑戦している姿がただただ羨ましかったんですよね。心の奥には、「私もそうやって挑戦したかった。」がありました。



そして、看護学校の第一希望の学校に合格し晴れて看護師の道へ進んでいきます。

今となっては、母校の専門学校はかけがえのない友人と出会い、看護師となるベースを培った場所でもあるので、なんの後悔もありません。その時の私の最善だったんだ。と、思えています。

ですが、失敗しては認められない、相手を笑顔にできない、失敗して批判されたくない、失敗して1人になりたくないから、失敗しない方を選ぶ。
この価値観はこの先、人生のあらゆる場面に出てきます。



ドキドキの看護実習デビュー!!/看護観が培われた場所


大学受験はせずに看護学校を受験し、晴れて第一希望の学校に合格。
看護師となる道の第一歩が始まりました。

高校の理系クラスとは違って男女の比率が真逆の世界。男性3人以外、約40人は女性でした。でも高校の友人とは少し違うのは、志同じく集まった仲間たちと将来を見据えての学びの場。なので、肩の力が抜けているというかフラットな感じで過ごせました。

解剖模型をバックに笑顔


看護学生1年目、最初は解剖生理学や基礎看護の座学、練習などなど。ええ、座学の時はよく寝ていましたw

いろんな知識を詰め込み、戴帽式を経て

今もあるのかな?大切な恩師と。

年が明けた1月から3週間、初めて病院での看護実習が始まりました。
病棟の担当看護師さん(指導者さん)と、学校教員(看護師)の指導の元で、実習期間中に1人の患者さんを受け持たせてもらったのですが、この時の患者さんとの出会いがあって私は、就職先の病棟を決めることになります。

私の実習先病棟は、脳神経外科病棟。

患者さんは、脳の中枢といわれる部分に脳梗塞(脳の血管が詰まってしまう病気)がおこり、ほぼ寝たきり。障害を受けた脳の機能によってめまいや、ふらつきが強く、話すことも難しい状態で何ヶ月もずっと、入院されています。

たった3週間で私に何ができるんや....

長い闘病生活、病態を把握するだけでも看護学生の私には難しかったです。

実習後、家に帰って当日の実習の振り返りと共に計画の修正、翌日の行動計画のを練り直します。それを毎日翌朝に提出します。
そこに加えて病態の学び直しや、患者さんから収集した情報を整理し、分析する。患者さんが生きてきたあらゆる情報を関連づけていきます。


レポート地獄の毎日...
私、いつ眠ればいいんですか???


けれど、日に日に口唇術(口でのジェスチャー)も理解でき、提案した病室での簡単なリハビリや余暇を過ごし方がマッチしたのか、患者さんの生活にもメリハリがついてきて、ベッドから離れて過ごす時間も増えていきました。

そして、実習最終日。患者さん本人から「最後だから、一緒に散歩に行こうか」と、言ってもらえる様になりました。


動ける様になったら部屋の窓から立って名古屋城が見たい。


実習当初に話されていたことは、本人のリハビリの頑張りで3週間後には車椅子で病棟の窓から自分の足で立って念願の名古屋城を見ることができました。

もう嬉しくて嬉しくて…
患者さんの横でダーダー涙してしまいました。

最後のお別れの時も、ふらつきもある中、深々と頭を下げて挨拶してくださった姿は、30年以上経った今でも忘れられません。

たった3週間でも私にもできることはあるんだ。
1日1日の積み重ねが、こんな未来を作るんだ。
何か、あたたかいものが心に灯った感覚がしました。

今、当たり前にあることは
本当は、当たり前ではない
病態だけではなく、患者さんの人生そのものを看護する

看護の醍醐味を知りそこから、看護という奥深さにはまっていくことになります。そんな、私のヒヨッコ見習い手前のナースの看護観を養うほどの素敵な、そして地獄と思うほどの壮絶な3週間の実習経験でした。




何のために看護師になるのか/自分の嫌な部分との対峙



私の看護師としてのベースになる思い出と出会いのあったドキドキの看護実習デビュー。ですが、2年目になり自分の気持ちの迷いと周りばかり気にする心の癖が出て、苦しい実習を体験することになります。

実習スタート前、まだ元気

2年生となり、相変わらずあまり筆記試験には身が入らず、看護論の勉強は大好きな私。

今考えると、看護師として働いた時に解剖学や、生理学、生物学、哲学や、色々もろもろ...これから、必要になるという感覚がなかったんでしょうね。高校の延長といった感じで、3週間の実習を終えた後も、先が想像できていませんでした。

今やっていることが何を意味しているのか、何のためにやっているのか、そこをどこまで自分の中で認識できているかがどれだけ大切か、今になって感じます。この時はまさに、勉強させられている感覚。結果、看護師になってから痛い目見ますw


そして、その気持ちは秋からの3週間 ✖️ 3クールの看護実習にも響いてきます。1年生の時の基礎看護実習とは求められることも、実習の目的・目標も段違いにレベルが上がります。

そして....
実習先のとある病棟の指導者さん&病棟看護師長が
めっっっっっっっちゃ
こわいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!

先に実習した子達からの噂で聞いていたw
「やばいよ、あそこ....」←言いかたw


私はその病棟に3クール目に行きました。
1日終わりの振り返りの時間、師長はため息ついて枝毛を探ししてる....発言の合間に何度も聞こえるため息......


これが看護の世界なんか…?


そして、私そのクールの実習リーダーでした。
リーダーを決めた教官を恨んだよね…笑
毎日、しんどかった。違う意味で胃が痛かった…
なんども、レポートファイルを地下鉄の線路に投げ込んでやろうかと思ったか…家の近くの川に投げ捨ててやろうかと思ったか…

実習より指導者さんや、師長の顔色を伺ってばかりで、何のために実習しているのか分からなくなっていました。レポートも全然進まない。書けない。
書きたいことを書いたら、なんて言われるだろう…
たくさん調べて、根拠づけしても自信を持つことができませんでした。


そんな毎日だったので、金曜日に実習グループ仲間と発散で飲みいくことだけが唯一の楽しみになっていました。

自分の目的や目標を見失っては、全く違った方向へ進み、今やるべきことにも集中できない。これをしっかり体感する、精神的にも身体的もフラフラな実習でした。

そんな実習を経験した私、
また新たに自分と対峙することが続きます。
実習終了後にあった筆記試験の結果が戻ってきました。

「数字が赤色で記入されている人は、教官室へあとで来てください。」

.....

私、一つの結果が赤で書いてあった.....(ゴーン笑)

終わった....
実習も不甲斐ない感じで終わって筆記試験もひどい点数...
私、何のために看護師になるんやろう...
私、何がしたいんやろう...

でも、試験も身が入ってないしやる気もなかった。

自分が悪いんやん。
みんなやってるのに…ダメダメやん。
何やってるんやろう。みんな頑張ってるのに...

教官室に行き担当の教官と話が始まりました。何を言われるかとドキドキする気持ちと、情けない気持ちが混じって先生の顔をしっかり見れない自分...私がずっと何も話さないから、先にぽつっとひと言、教官が話してくれました。

「〇〇さん(リーダーでまわった病棟の患者さん)、この前ね元気に退院されたんだよ。」

それを聞いた瞬間、とめどなく涙が出ました。
病気の症状で麻痺が出て、リハビリを頑張っていた担当患者さんの顔が浮かんで、涙が止まらなかった。必死で泣かないようにしていたのか泣けなかったのか、グチャグチャな気持ちと一緒に栓がポコッと取れてしまった感じでした。

ごめんなさん〇〇さん
私、全然ダメでした。
もっと、できたことがあったと思います。

でも、しんどかった。
苦しくて逃げ出したかったんです。
ごめんなさい。でも、退院できて本当に良かった。

懺悔と、情けなさと退院されたと聞いて少しホッとした気持ち。教官室の外で待ってくれていた友達の前でまた、叫ぶように泣きました。

自分のダメさに嫌気がさし、看護師になりたい気持ちさえ、よく分からなくなった看護学生2年目。でも今考えると、「この自分でいい。この自分でできることがある」なんて到底思えなかったけど、自分の嫌な部分とはじめて向き合った時期だったのかな。とも、思います。




大好きな祖父の死/病気は人の人生を蝕むもの


9週間の長期の実習も自分の満足する感じで終わらず、不甲斐なさでいっぱいで自分の嫌いな部分を嫌という程見ることになった、看護学生2年目。

そしてはじめて、大切な人はいなくなる、いついなくなるかなんて分からない、というリアルな体験をします。

肌寒くなって日が落ちるのも早くなってきた頃、母と父からある話を聞かされました。

「お爺ちゃんの状態があまり良くない」

農業を営んでいる、小柄で日に焼けて色黒の父方の祖父。
夏休みに帰ると毎日毎日、朝早くから牛の世話と、田畑の仕事をしている印象で、休んでいる姿は覚えがありません。そのくらい元気で、仕事熱心なお爺ちゃんでした。
 
秋に風邪をこじらせて入院したとは聞いていたけど...
その時私は看護学生2年で、姉は看護学生の3年でした。姉と相談して1日お爺ちゃんに付き添わせてほしいと、母にお願いしました。

遠方の祖父の病院へ2人で飛行機に乗り、空港へは叔父さん(母の弟)が
迎えにきてくれました。叔父さんの家で食事と、お風呂をよばれたあと病院へ。病院に許可を頂いていたので、ど田舎の古い病院の薄暗い廊下を抜けて、お爺ちゃんの部屋に入りました。

2人部屋にお爺ちゃんが1人、ベッドに横になっていました。
頭が少し上がっていて頭元には大きな点滴、ベッド下には管を入れ排泄される尿がたまるバッグが吊り下げられていました。

近くへ寄って行くと、そこにいるのは私の知っているお爺ちゃんではありませんでした。腕や足、お腹、顔、眼球までむくんでパンパン。むくみがひどいため皮膚が薄くなり張り裂けそうです。酸素マスクをして肩で呼吸をしていました。

「おじいちゃん...」

名前を呼んでも、返事はありません。
こんなことになってるなんて...思いもしなかった...
想像してたんと違う…

姉と2人顔を拭いたり、足をお湯で洗ってみたり、できる限りのことをやりますが、看護学生といっても非医療者と同じ。足もむくんで皮膚が弱く、「痛かー!!!」というお爺ちゃんに何ができたかと言われても正直、看護学生の私にはできることはありませんでした。

こんな2人を病院の方もよく付き添わせてくれたと今となっては、感謝でいっぱいです。

一晩経って次の日、伯父、伯母もきてくれて面会し、叔父さんの迎えで
また名古屋に帰ることになりました。最後に、お爺ちゃんのむくんだ手をさすりお爺ちゃんの顔を目に焼き付けました。
けれど、私はこの時にふと思いました。


あんなに元気なお爺ちゃんやもん。
もしかしたら、今が1番状態が悪いだけかもしれない。
いつもの体力でまた落ち着いて、むくみもなくなって家に帰ることが できるのかもしれない。


けれどその数週間後、師走の寒い日に祖父は家族に見守られながら亡くなりました。


お爺ちゃんが亡くなった。
あんなに元気なお爺ちゃんが亡くなった。
病気が、お爺ちゃんを連れて行ってしまった。

あんなに元気な人でも病気にはかなわへんのや....
病気は、人の人生を蝕むんや。
大切な人を奪って行く...

どんな人も命はなくなる。
大切な人もいなくなる。


看護学生の私でさえも、死というものがリアルではありませんでした。
どのように人が最期に向かっていくのか、知識だけではわからないことばかりでした。自分の予想と反することが次々と起こりました。
祖父の死で命が有限であることを知ります。そして、病気は大切なものを奪って行くという大きな大きな喪失感を感じた体験でした。

病気の人は可哀想な人
病気は、人の人生を蝕む

そんな人のために看護師となって役に立ちたい
誰かの役に立つために看護師になりたい。

そんな目的を持って、ただそれだけを掲げて敵を迎え撃つかのように、看護師になるのを目指していきます。




大好きな叔父のガンと母を失う恐怖


祖父の死で、私の近くにいる人にも命の終わりはあるんだと知るり、病気は、人の人生を蝕むもので病気の人は可哀想な人だから、そんな人の役に立ちたいと、看護師になる決意を新たに進み始めた頃。


またしても辛いことが起こります。


父の仕事での転勤が決まり父と母、弟と妹は再び、奈良県に戻ることになりました。看護学生3年になる私と、看護師の国家試験に無事合格し、晴れて看護師となった姉との2人暮らしが始まりました。
2人で、借りる部屋も見に行き、引越しをして新しい新居の棚を一緒に作ったりワクワクしながら新生活がスタートしました。

そして、そんな新しい生活が始まってすぐ母から連絡が姉にきました。

「叔父さんが ガンって。」


は? なんで?お爺ちゃんの時あんなに元気やったやん?
お葬式の時も、おじちゃんが色々手伝ってくれて助かったって、お母さん言ってたやん。それ3ヶ月前やん?嘘でしょ?
あの大好きなおじちゃんが、あんなに優しいおじちゃんが癌になるはずがない。何かの間違いや、ありえない。


最初に聞いた時、嘘だとしか思えないし嘘であってほしいし、間違いであってほしいし、パニック状態。全く受け入れられませんでした。

叔父さんはすぐ手術をしました。
私はその日、就職候補病院の説明会で、行きのバスの中、真っ青な空を見ながら必死にお願いしたのを覚えています。

神さま、お願いします。おじさんの手術が成功しますように。
癌を全て取り去ってください。お願いします、助けてください。
おじさんを助けてください。
お願いしますお願いします.....

姉である母も、その日おじさんの元へ行っており、術後に母から連絡がきました。涙をこらえながらの母の声だったので、すぐに分かりました。

「お腹の中に 広がっていて
 取りきれる状態じゃなかったって。」

母の悲しい、力のない言葉でした。

母にとって、弟であるおじさんはいわば、たった1人の肉親。
祖母は53歳で病気を苦に自ら亡くなっており、祖父は私が高校2年生の春に 69歳で亡くなりました。
他の親戚は疎遠で、母も叔父さんも色んな苦労をしているからか見えない強い絆で繋がっている感じがあり、母にとって唯一無二の存在なんだと感じていました。

甥、姪のこともとても大切に思ってくれていて、私や姉の成人の時には大きな花束を送ってくれて、季節には果物を送ってくれて、優しい声で優しく話してくれる電話が大好きでした。言葉は少ないけれどお酒を飲むとすごく陽気ですごく優しいおじさんでした。


なんで、こんなに悲しい思いをさせるの?
なんで、私の周りの人ばっかり苦しい思いをしないとあかん?
神様なんかいないわ。あんなに優しい人が何で癌にならんなあかんのよ...

私の心はまだまだ、現実を受け入れることができなくて拒否や、否定、絶望、拒絶そんな気持ちで溢れていました。そしてここから、こんな気持ちが出てきました。


お母さんは大丈夫だろうか...
おじさんの状態がこれから悪くなっていったら
お母さんは、どうなってしまうんやろう
もしかしたら後を追ってしまうんじゃないやろうか...

母を失う恐怖

叔父の病と、大切な人を失う不安を膨らませた結果、私の心の根っこである母を失う恐怖がどんどんと大きくなっていきました。



もうだめかもしれない / もう一度、母と笑ってほしい



叔父の病で、大切な人を失う不安と同時に、私の心の根っこである母を失う恐怖が大きく膨らんでいった、看護学校3年目。

3年目は、看護学校の最終学年で1年の大半が看護実習というプログラムになっていました。そこに、国家試験対策!!!
小児看護・急性期看護・回復期看護・精神科看護・周産期看護・周手術期看護・地域医療  漢字ばっかりw まだあったな...

その1年を一緒に過ごす実習チームの仲間と、1年目の実習の時に担当してくれていた私の恩師。
叔父が病気であることと、母を失う恐怖を長い時間を共にし、少しずつ心の内を話すことができていました。彼女たち、先生がいなければ私は、地獄の実習(笑)と不安な気持ちを乗り越えられなかったと思います。

暑い夏になり、祖父の初盆で父と母の田舎に帰り、叔父さんにも家族で会いに行きました。抗がん剤の副作用で髪の毛が抜けるからと丸坊主にしていました。

表情固く、笑顔がない...何を話したらいいのか...
私達がいる間に叔父さんの定期検査の日があり、父と母は一緒に結果を聞きに行きました。

結果、腎臓、肝臓、肺に転移が見つかりました。
全身状態もあまり良くなく、叔父さんが父と母に言ったそうです。

「もう、ダメかもしれない」

叔父さんの家で妹と一緒に台所を借りてシュークリームを作って叔父さんに食べてもらいました。

「美味しいねぇ」
「ありがとうねぇ」

電話で聞いていたあの優しい声。
嬉しい気持ちと何もできない不甲斐なさで、とても複雑な心境...
看護学生で、何も言ってあげられることも、できることもできない。
私が今、一人前の看護師だったら何かできることがあったのかなぁ...
胸がチクリとなりながらそんなことを思いました。

帰る時になり、私はこれから看護師になり仕事を始めるし、叔父さんは飛行機に乗って会いにくるほど遠くに住んでいる。

頻繁には会えないことも分かっていたし、叔父さんの状態も少しは理解していました。なので色々考えると帰りの挨拶の時、涙が止まりませんでした。
何も言えない私に、叔父さんはいつもの優しい顔で「ありがとうね」とポンポンと、頭を撫でてくれました。

早く良くなってね
元気になってね
一緒にお酒飲みたい

私が看護師になった所を見てね
私が、看護師になるから。頑張るから。

死なないで
元気でいて
置いていかないで

母を置いていかないで
母を悲しませないで
いっぱい笑って

母と一緒にいっぱい笑って

沢山の思いと一緒に叔父さんの元を後にし、9月からまた実習の毎日を送っていた時、突然のはやすぎる別れが訪れることになりました。




叔父が自ら選んだ死 / もう大切な人を連れて行かないでください


9月から実習の毎日を送っている夕方、その日の実習が終わりグループ仲間と帰っている時、携帯にメールが届いていました。

母からでした。


「ごめんね、おじさんだめやった」


メールの文字を読んでも訳が分からない。
涙が溢れてその場で泣き崩れました。


母親に連絡すると母は、気丈なしっかりとした声でした。

「なんで?なんでこんなに早いの?」

「状態が悪くなったの?」

「なんで?」

私は、訳も分からずに矢継ぎ早に質問したと思います。すると、母から2度も聞くことが絶対にあって欲しくない言葉が返ってきました。

「自分でよ。自分で亡くなったんよ」



母に叔母さんから連絡があったのは昼過ぎでその時母は泣き叫び、弟がそばにいてくれて色々飛行機の手配など、諸々を整えてくれたと聞きました。

なんで?なんで?
何で、死んじゃうの?
何で、生きててくれないの?

何で、おばあちゃんの時と同じ辛さを、お母さんがまた味わわんなあかんの?何で、こんな悲しい思いをみんなするの?

何で、死んじゃうの?
なんで生きててくれないの?

全部病気のせいや。
病気にならなかったらこんな思いは、みんなしなかった。

やっぱり病気は本当に人生を蝕む
病気の人は、可哀想や。

もう、私の大切な人を連れて行かないで。
私の大切な人ばかり悲しませないで。

お願いします、お母さんまで連れて行かないで。


もう、この時の私は辛すぎて、悲しすぎて、不安すぎて、病を恨み、全て病のせいにすることでしか自分自身の心が保てなかったし、病を敵にすることでその病で苦しんでいる可哀想な人を作り、その人たちを支える私の役に立つ場所を作ろうと必死でした。自分の悲しみを役に立つことで感じないようにしていたのだと思います。

叔父の事情を話していた先生とも話をし、翌日の実習を終えて飛行機に乗って叔父の家に向かいました。




叔父の死 / 私の幸せとは何なのか

叔父の家に着いた頃にはあたりは真っ暗。空港には、先に着いていた父と、姉が迎えに来てくれました。どんどん近づいてくる父と母の故郷。小さな頃はいつも楽しみに帰ってきていたのに、ここに帰ってくることが苦しくなったのは、いつからだろう....


叔父の家がお葬式の仕様になっていて、いつも最初に出てきてくれる叔父さんがいないので「ああ、叔父さんは、本当にいないんだ」と、少し実感が湧いたのを覚えています。
叔父さんの写真が花の中にあって、動かない叔父さんが棺の中で寝ている。声をかけても、優しい声と優しい笑顔で返事もしてくれない。もう何が何だか分からずただただ泣きました。

そのとき叔母さんが私に「ごめんね」と、言いました。
 

何で、叔母さんが謝るの?
どうして、同じ辛い思いをした人が謝らないといけないの?
どうして、みんな辛いの?

そんな思いで、また悲しくなりました。

夜通しロウソクが消えないように交代で、叔父さんのそばにいて次の日、お葬式をして叔父さんは、とうとう荼毘に付されました。

姉は夜勤だったので先に帰路についており、帰りの飛行機も1人でした。

帰りの飛行機は夕方で、雲を抜けて金色に光る広い空の向こうに、沈みがかった夕日が見えた時、どこかに叔父さんがいるような、叔父さんが見てくれているような気がして、ずっとずっと泣きながら外を眺めていました。

自宅の近くまで着いた時、親友に帰ってきたことをメールしました。すると、程なくして手紙と私の大好きなシュークリームを持って家に来てくれました。

手紙の最後の締めくくりは
「シュークリーム食べて、また元気だしな!!」
夜勤で姉もいなかったのですごく救われました。泣きながら食べたシュークリーム美味しかったなぁ....私はいつもいつも、周りに支えられて生きています。



叔父の死は、私の人生の中でもとても大きなもので今は、叔父さんが命をもってたくさんのことを教えてくれたのだと思えています。

自分で、死を選択することが可哀想な人生なのか、短い生涯で終わることが可哀想な人生なのか、長く生きることが本当の幸せなのか。

そんなことは外野が決めることではない。

何が、私の幸せなのか、人生を生ききるとはどういうことか。
看護師人生の中で沢山の患者さんの命からも学びそして、母となった今もずっとずっと問われている私の課題だと思っています。


今でも優しい叔父さんのことを想うとグッとくるものはありますが、いつも見守り応援してくれているような感覚になっています。悲しい思い出だけでは決してありません。

残りの実習も乗り切り、いよいよ難関の国家試験が迫ってきます!!
さぁ、毎度毎度、赤点ギリギリの私が果たして合格するのか!!笑
こう、ご期待!!!


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