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何者でもない私たちへ

さっき、彼と電話をした。
大学時代の友人夫婦から、ご懐妊の報告を受けたらしい。
27歳の誕生日をむかえ、彼の物語が第2モラトリアム編に突入してひと月後の出来事だった。

その報告がきっかけとなって、彼は珍しく思い悩んでいた。
人生が難しい。何になればいいのか分からない。絵を描く動物になればいいのか、計算をする動物になればいいのか、、、。
と、珍しく人生とか幸せとか未来について漠然と不安になっていた。


あー、あるよね。
分かる。
これからは、独身とはまた違う悩みを持つようになるであろう友人たちの背中を祝福しながら見送るも、胸の内でたしかに感じる焦燥感。


隣の芝生は青い。

分かっていても、青いもんは、青い。


自分はパン食い競走の選手なので、いかに次のレーンのパンを食べるかということばかり気にかけていた。それが幸せだし、つとめでもある。
しかし、突然長距離走に出場する友人たちの姿が視界に入る。自分のいるレーンは全く変わりないのに急にラップタイムやゴールタイムの計算をしはじめてしまう。乱暴な例えなのだが、そんな感じ。そういうことが、彼に起きていた。

アラサーには、度々そういう瞬間が訪れる。


パン食い競走を頑張っていること自体が幸せであるのであれば、その都度思い出さねばならないのだ。自分が、長距離選手ではなくてパン食い競走の選手であることを。


忘れないで。


それからもう一つ。
これはわたしの主観だよ。
でも、人に与えられた役割なんてのは嘘っぱちだと思うんだ。
よく、表現者として生きる人達に「彼はこれをする為に産まれてきたんだ。」なんて周りの人が言うのは、嘘っぱち。
表現者のなかには、稀に「どうしても、辞められなかった」「これしかできなかった」という人がいる。それは、本当だと思う。

でも、だからといって「それをする為にうまれてきた」だなんて。それは少し、乱暴な気がする。

人間っていうのは、動物だから遺伝子を繋いで種の保存に法って生まれてきたり生んだりするんだ。だから、うまれてきた時点でだいぶ達成しちゃってる。
これで、子を持たぬひとたちは自分を責める必要なんて1ミリもないと思っている。
子供をうめない、持たない人が、人間が生命活動を行う目的を達成していないだなんて、微塵も思わない。


ここから先は、たられば話のような、かもしれない運転風の自論だけど。


あの人も、あの人も私と別れてから結婚して子供ももってしてる。私が別れてなかったら、その子は産まれてきていないものね。

みたいな。

あなたが電車で他の人に席を譲ったから、譲ってもらった人の健康維持に貢献できたりしちゃって、誰かの命に繋がっているかもしれない。
みたいな。

ほら、なんか何かに影響を及ぼさないなんて無理だもの。
的な。

ちゃんと君は生きてて、すでに、役を演じているよ。大丈夫。
アラサーには、まぁ、アラサーでなくても。
パン食い競走を、見つめ直しちゃう機会がたくさんある。忘れないで、大事なのは自分がパン食い競走をしたいかどうかなんだよ。辞めたかったら辞めて、長距離したくなったらはじめていいんだし。慣れることだよ。
アラサー歴5年目のわたしより



#思い込みが変わったこと

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