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「半自伝的エッセイ(20)」コカコーラ

梅雨が明け、いよいよ本格的な夏が到来し、連日のように暑さが続いていたある日のことだった。チェス喫茶「R」のマスターが体調を崩し入院する羽目になった。簡単な手術は必要だが生死に関わるような病ではなく、それでも一週間か10日ほど入院が必要らしく、その間「R」をどうするかという話になり、最も暇そうな私に白羽の矢が立った。

ほとんど行っていない大学はさらに都合のいいことに夏季休暇中であり、なんの予定もなかった私にも異存はなく、カウンターの向こうに立っているだけならと、マスターが入院している間の営業を引き受けることにした。自分のアパートの部屋に冷房のない私にとって、クーラーを効かせ放題の店の環境が有難かったことも、引き受けた理由のひとつであった。

もともと営業時間はいい加減なところがあったから、夜になって誰も居なくなれば二十時に閉店してしまうこともあった。しかし、自分のアパートに帰ると暑いので、カウンターの上の蛍光灯だけを点けて、日付が変わるぐらいまで一人で店の中に残り、チェスの研究などをしていた。

そんなある夜のこと、閉店後の店の入口のガラスドアを叩く人がいた。もうすぐ日付が変わるころだった。ガラスドアのほうに目をやると、女の人が立っていた。私はカウンターを出て、ドアを開けた。
「すみません、もう閉店なのはわかっているのですが」と、その女性は言った。女性からは微醺がした。
私はその女性に見覚えのあるような気もしたが、店に来る人ではなかった。
「このお店、ずっと気になっていたのですが、チェスとかできるお店ですか?」
「むしろ、チェスしかできないお店です」と私は答えた。
「年齢制限とかは?」
「いや、特にはないです」
「子供でも?」
「歓迎です」
「あの・・・」
その女性にはなにか話したいことがあったようだったので、店内に招き入れた。

私はカウンターの向こうに戻り、女性にはカウンター席に座ってもらった。
「なにか飲みますか? といってもたいしたものは置いてませんが」
「あの、でも、お水をいただければ・・・」
私はグラスにたっぷりの氷を入れた水を出してあげた。
「チェスって面白いですか?」と、一口水を飲んでからその女性は尋ねた。
「どうなんでしょう、面白いといえば面白いし、なんでたかがゲームにこんなに頭を使っているのか自分でもわからなくなったりもします」
「あの・・・」
「はい」
「息子がチェスを誰かとやりたいって言うんです」
「息子さんはお幾つですか?」
「小学校の二年生です」
「夏休みですよね」
「ええ、それでちょっと困っていて」
「と言うと?」
女性はここから歩いて十分ほどのところでスナックを経営していて、夜は息子を独りにしておかなくてはならず心配だという。息子がしばらく前に理由はよくわからないけれどチェスをやりたいと言い出したので、駒と盤のセットを買ってあげたら、もう夢中になって一人で二役をやって遊んでいる。自分はまったくチェスのことを知らないし、そういうのが苦手なので、誰かちゃんと教えてくれる人が欲しい。女性の話はおおよそそんなところだった。
「ここに連れてきてくれて構いませんよ」
「ご迷惑じゃありませんか?」
「いや、こちらも暇ですし」
夏の間は、旅行に行く人や帰省する人が多く、店には閑古鳥が鳴いていたから、さすがにもう少し人の気配があってもいいかなと思っていたところでもあった。

そんな会話を交わした翌日、午後四時ぐらいに、女性は息子を伴って店にやってきた。
「ちゃんと自分で名前を言って」と、女性は息子の背中に手を当てて言った。
「あおしましんいちろうです」と男の子は言った。
「歳は?」と、また女性が促した。
「小学二年生です」と言いながら、男の子は店内の様子を目だけを動かして観察しているようだった。
女性が私に向き直り、「本当にご迷惑じゃありませんか?」と言った。
「子供の扱いには不慣れですが、女性よりは慣れています」と私は言った。
女性は少し笑って、「なにかあったら電話をください」と言い、店の名刺を置いて出て行った。名刺には「スナック綾」とあった。

「さて、しんいちろう君、なにする?」
お母さんがいなくなり心細そうなしんいちろう君に私は尋ねた。彼はテーブルの上に置いてあった盤駒を指差した。
「どこでチェスを知ったの?」
「児童館」
「児童館にチェスがあったの?」
「うん」
「誰かが教えてくれたの?」
「ううん」
「どうやって覚えたの?」
「本」
「本があったんだ」
「うん」
「じゃあ、指してみようか」
「うん」
こうして私たちはチェスを始めた。私は一切手を抜かずに一局指した。もちろん私の圧勝である。十数手でメイトに仕留めた。しんいちろう君は意気消沈しているようでもあり、泣きそうでもあった。
その一局のある局面に駒を戻して、しんいちろう君に間違いを教えた。それを夏中、何度も何度も繰り返した。嫌になってもう来ないんじゃないかと私は思っていたのだが、しんいちろう君は日曜日以外毎日やってきた。
夏休みの最後の週、しんいちろう君はまだ手をつけていない宿題を持参してやってきた。彼はチェスを自由研究にしたいというので、私が漢字ドリルのマス目を下手な字で埋め、算数の問題を解き、白地図に色を塗った。お盆が終わってからはお客さんもまた店に顔を出すようになり、そうしたお客さんも彼の相手になってくれた。そうして、しんいちろう君は一夏でおそらく1200点ぐらいの腕前にまでなっていたと思う。冬休みになればまた来るのではないかと心待ちにしていたが、彼がやってくることはなかった。お母さんがやっていたスナックにも行ってみたが、別の店に変わっていた。

それから十年ほど後のこと、私はたまたま買った将棋雑誌の中に彼の名前を見つけた。奨励会の三段にその名前はあった。表記は漢字だがそれは確かに「あおしましんいちろう」と読めた。顔写真はないが、指折り数えると、年齢は合っていた。同じ年齢の同姓同名の他の人かもしれなかったが、一夏であれだけチェスの棋力を上げた彼ならば、将棋でもそのぐらいになっていても不思議ではなかった。私はその「あおしましんいちろう」君を応援した。毎月『将棋世界』を買い、彼の星取りを確認した。四段に上がってプロになれ、そう願っていた。しかし、二年ほどして彼の名前がなくなっていた。まだ年齢制限には引っかからないので、別の理由で退会したのだと思われた。その辺りの事情は雑誌にはなにも書いてなかった。

しんいちろう君が初めて「R」に来た日、私は彼に「なにか飲む?」と尋ねた。
彼は小さな声で「コーラ」と答えた。
「コーラ?」私は確認のために聞き返した。
「うん、でも・・・」
「ん?」
「ママが飲んじゃいけないって」
「わかった。ママには内緒にしておこう」
私はグラスに少量の氷を入れ、たっぷりのコーラを注ぎ入れた。その上にレモンのスライスを添えて出してあげた。翌日は、砕いて小さくした氷にコーラを注ぎ、その上にバニラアイスを添えてあげた。その翌日からは二人で瓶に直接口をつけてコーラを飲みながらチェスを指した。一夏で何本ものコーラの瓶を空にした。

(文中に登場する人物等は全て仮名です)


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