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20230707学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第15章 第2インタナショナルができた

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『三つのインタナショナルの歴史』


【第15章 第2インタナショナルの創立(1889年)】


1889年7月14日、第2インタナショナル創立大会がパリで開かれた。この日は、フランス大革命でバスティーユが陥落してから100年目の記念日であった。この大会は、ドイツのマルクス主義者が呼びかけ、フランスのマルクス主義者が組織した。20か国391人の代議員が集まった。アメリカからも4人の代議員が出席した。

この大会と同じくして、パリでもう一つの「インタナショナル」の大会が開かれていた。「ポシビリスト」(可能派)と呼ばれる日和見主義者たちの集まりで、イギリスの労働組合幹部とフランスのポール・ブルース派が組織した大会だった。彼らはブルジョア合法主義の枠の中で社会主義を達成することを目論んでいた。


[大会のはたした仕事]


ヨーロッパでもアメリカでも、労働組合が成長し、社会主義政党が生まれ、ドイツやデンマークなどでは社会党員が議会に選ばれ始めていた。そのような情勢で開かれた大会は、若い活気に満ちたものであった。世界労働運動の前途は有望なものと思われた。


各国の党の報告に基づいて、いくつかの決議が検討され採択された。例えば、常備軍の廃止と人民の武装についての決議、8時間労働日を確認する決議、選挙は他の党と妥協や提携をせず投票によるものとする決議(これは少数の無政府主義者グループが反対した)、国際的な労働立法の確立に対する決議などが行われた。

様々な決議の中で最も重要な決定は、5月1日を国際労働運動のデモンストレーションの日と定めたことであった。

これは、アメリカ労働総同盟が1888年12月のセントルイス大会において「1890年5月1日を期して8時間労働日のためのデモンストレーションを実行する」と決定したのを支持したものである。この日に、各国の労働者はそれぞれの自国の条件に応じてデモンストレーションを組織しなければならないと定められた。その後の大会でもこの決議は繰り返され、こうして5月1日はメーデーとなった。


第1インタナショナルが解体してから13年が経っていたが、労働者階級の組織が発達していく中で指導的な立場にあったのは、マルクス主義者たちであった。マルクスとエンゲルスの指導のもとで、マルクス主義者も機関紙も第1インタナショナルの頃よりも大幅に増えた。

対照的に、第1インタナショナルを蝕んだ分派プルードン主義は、すでに記憶の中の存在になっていた。ブランキ主義も小さなものに変わりなく、ラッサール主義もほとんど孤立していた。


マルクス主義者の大部分はドイツにいた。ドイツの社会民主党は、第2インタナショナルの政治的指導権を握っていた。この指導権は、1919年の共産主義インタナショナル結成まで続いた。ドイツの労働者階級は約半世紀の間「全世界にとっての社会主義組織の手本」だったと、レーニンは述べている。


ドイツでは、資本主義が拡大するとともに、社会主義政党と労働組合も大きく成長した。マルクス主義の新しい著述家が各国に現れ、その第一人者が、ドイツのカール・カウツキーである。

カール・カウツキー(1854-1938年)は、チェコ人の父とドイツ人の母との間に、オーストリアで生まれた。エンゲルスの死後は第2インタナショナルの著名な理論的指導者となった。1889年のパリ大会後に書いたドイツ社会民主党のエルフルト綱領は、長年にわたり社会主義政党の模範とされることとなった。


第2インタナショナルの時期は、革命的な時期の第1インタナショナルのころと違い、資本主義が比較的穏やかに発展した時期だった。そのため、プロレタリア革命がそれほど迫っているものとは感じられなかった。大会では革命についての問題は取り上げられず、労働者階級の当面の要求に関することが議題に上がった。それは、軍国主義反対のたたかい、8時間労働日、労働者の選挙権の拡大、工場法の制定、そして、労働組合、協同組合、社会主義・労働者政党の建設などのたたかいであった。


[右翼の危険性]


第1インタナショナルにとっての災いは、頑強で性急な似非革命的な諸分派である極左主義者たちだったが、これは取るに足りない少数派だった。第2インタナショナルの災いは、これとは正反対の右翼日和見主義者たちであった。この右翼的な傾向は、やがてインタナショナルを破滅に導くこととなる。

第2インタナショナル創立大会で既に、右翼的な存在は明らかとなっていた。特徴として、まず、ポシビリストが独自に勝手に大会を開き、世界労働運動における革命的マルクス主義者の指導権に匹敵するほど力をつけていたということ。第1インタナショナルのころから、この危険な右翼的傾向は力を増していたのだ。

もう一つの右翼的な特徴は、大会自体の内側で起こった。第2インタナショナルの創立大会では、組織としては当然あるべきもの、例えば国際的な指導にあたる委員会も、世界的な司令部も、国際機関紙も、正規の規約も、はっきりとした政治綱領も、そして決定したことに対する規律ある実行も、何一つできなかった。更に、第2インタナショナルは正式名称もないままだった。国際機構についての考え方は、無政府主義者に比べても遅れていた。プルードン主義者やバクーニン主義者は「国際的な中枢部は連絡文書や統計を扱う事務局であるべきだ」と主張したが、第2インタナショナルは創立から10年たっても世界的中枢部をつくろうともしなかった。1914年に大衝突が起きて初めて、この危険性に気づくことになる。


[右翼日和見主義の根源]


第2インタナショナルの右翼日和見主義の根源は二つあった。

一つ目は、熟練労働者と労働組合官僚の間で発展した。経営者たちは賃金面の譲歩によって、熟練労働者と労働組合官僚を利用しようとした。そうすることで、熟練労働者は労働者階級のストライキに協力する必要がなくなった。労働組合は小さな組織のままで、労働者階級の独自の政治活動には反対するようになった。

二つ目は、たくさんの小ブルジョア・インテリゲンツィアが、出世のためにあちこちの都市で労働者の政治組織を指導した。そうして、州や市の行政機関に労働者の代表としての地位を占めるようになっていった。このような者たちは、労働運動の政策を、常に穏和で改良的な方針になるように作り直そうとした。このことは、小ブルジョアや資本家にとっては有利になるものであった。

労働者階級の日和見主義者は主に労働組合の中で、小ブルジョア・インテリゲンツィアの日和見主義者は主に政治の分野で、それぞれ活動していた。これら二つの日和見主義者たちは、それぞれ補い合いながら活動していたが、全体的に労働者階級の利益は資本家階級の利益に従属させがちであった。


右翼日和見主義が最も深く根を張っていたのはイギリスの労働運動だった。当時のイギリスが進んだ帝国主義国であったことが理由に挙げられる。経営者は、植民地の人民から過度に利潤を搾り取り、労働貴族とその幹部を腐敗させる帝国主義的政策を適用していた。このような国では、労働者が「革命」などという言葉を発しようものなら途端に馬鹿にされた。当時のイギリスには、真の労働者階級の運動はもはやなかった。


経営者や保守的な労働官僚たちは、労働者階級を自由党の指導の下につなぎとめておきたかった。ところが、1881年にヘンリー・M・ハインドマンの指導によりマルクス主義者のグループができ、1884年にはこれが社会民主連盟となった。このような組織ができたため、ブルジョアジーは政策を変更せざるを得なくなった。そのためにできたのが、フェビアン協会である。フェビアン協会は急進的な小ブルジョア・インテリゲンツィアが率いていた。彼らは、労働者階級を自由党の下につなぎ留めておく政策よりも、マルクス主義を骨抜きにし、労働者階級の政治活動を無力化しようとした。フェビアン協会の人たちは社会主義的目標が曖昧だった。ある時は「イギリス人にとって、社会主義者になるということが自由主義者や保守主義者になるのと何ら変わりもなくあたりまえのこととなるようにしなければならない」と言った。またある時には「イギリスの社会主義者に必要なのは算術の四則やモーゼの十戒、イギリス国旗と矛盾してはならない。なにものも奪い去ってはならない」とも言った。さらに「イギリス社会主義の創始者はカール・マルクスではなくロバート・オーウェンだった」と言い、「階級戦ではなく人類は兄弟」という教義を説いた。

こうした思想の影響は1880年代の保守的な労働組合幹部の間に広まり、いまでも事実上、イギリス労働党のイデオロギーを支配している。


右翼日和見主義者は、アメリカやフランスでも、労働運動の中に根を下ろしつつあった。こうした中、ドイツでは右翼日和見主義者の動きはまだほとんど出ていなかった。ドイツではマルクス主義者が労働運動や政治運動をしっかり握っていたため、また、専制的・半封建的な政府の下でようやく資本主義国になり始めたばかりということもあり、右翼の影響力は小さいものであった。


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