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【北京大学留学日誌】政治学のフロンティア

 ご無沙汰しています。今学期はレポートに追われたり友達とバレーしたり遊んだりで全然更新してませんでした...すいません。こちらでは春節明けの2月下旬に授業が始まって、6月上旬には授業が終わり、2週間前ぐらいに最後のレポートを出し終わって夏休み突入です。やったぜい〜
 さて、今回は俞可平先生の政治学のフロンティア(政治学前沿)という授業です。この授業は政府管理学院(法学部政治学科のようなところ)の2年生の必修の授業で、彼らは1年生のときに政治学を履修しているはずです。

 まず、俞可平先生について。彼は現在、北京大学政府管理学院院長を勤めています。幹部と呼ばれるクラスですね。当然、共産党中央によって選ばれています。1959年生まれで北京大学で博士号、ドイツのデュースブルク=エッセン大学で名誉博士を取られています。見た目もっと若いかと思っていました笑。胡錦濤政権ではブレーンとして活躍していたみたいです。<民主是个好东西>(「民主は良いものだ」)という論文を2006年に出して、話題になったようです。
 どちらかと言えば、たぶん皆さんが想像するような中国共産党のイメージとはちょっと違った人かなと思います。では、さっそく授業内容へ。

 授業は秋学期月曜6時40分〜9時20分(10分休憩一回)の150分でした。学生はたぶんほとんど出ていたと思います。シラバスは以下の通りです。第一回政治と政治学、第二回政治学の公理と効用、第三回国家と国家利益、第四回グローバル化と国家主権、第五回政府と政府の革新、第六回権力と権威、第七回ガバナンスと善きガバナンス、第八回法治と公正、第九回公民と公民社会、第十回政党と政党政治、第十一回政治文化と文化の変化、第十二回政治の交流と宣伝。他に、ビデオ鑑賞とプレゼンがありました。

 さて、日本では加藤淳子先生に政治学を教わっていたわけですが、例えば国家主権、権力、権威、政治文化、政党など項目はけっこう似通ったものでした。また、このような政治学における分析、研究の方法は日本では加藤先生の授業や読んだことのある本を見る限りでは基本、アメリカでの議論を使って論じられていました。俞可平先生も授業をされている際、やはり基本は日本で習ったようなものに近い議論をしていました。例えば、権威と権力を説明する際には、権力="authority"、権威="the power to make decision"という風に説明し、その源を英語での説明に求め、古代の漢字の意義とは違うんだという風に説明しています。法治の説明でも、これは民主と密接不可分であって、国民の主体的な地位を保証するものであり、現代政治文明の所産であるという風に述べています。正義に関しても自然法の考え方で説明されていたり。政党の効能についても、イデオロギーチックな話はしていませんでした。
 グローバル化と国家主権の回などはまあ主権国家の役割はまだまだ重要だぞといった日本でもおなじみの議論でした。

授業の特徴

 ただ、特徴的だと思ったのが、俞可平先生の授業中の主張のひとつとしてかなり中国の特色というものを強調されていたことです。西洋のものと中国のものを比較して論じ、中国は西洋の民主の道を進むのではなく、中国独自の民主の道を進むんだといった論調です。例えば、権威と権力の違いを述べるとき、先生は中国のオリジナルの概念も用いています。「王道」「覇道」の違いで、こういった概念から例えば、「徳を以って人を服す」と「力を以って人を服す」の違いでもって考察を深めたりしています。なので、「善きガバナンス("善治")」というのは先生の中では民主や法治と並んでかなり大きな課題で、そういった部分は日本で西洋で発展してきた政治学を学んでいては出てこないような発想だと思います。即ち、「王道」=「徳を以って人を服す」というのは「徳政」や「仁政」に通じる概念で、「善きガバナンス("善治")」はそこから派生しているということです。ここに民本が内包されているにしても民主や自由は元来含まれておらず、自由主義的民主主義が前提とされている日本での議論とはやはり少し違ったテイストとなっているような感じがします。
 例えば政党論において、この傾向は顕著にあらわれているなと感じます。日本での政党論といえば、デュベルジェの法則やメディアンヴォーターの理論など民主的な選挙の存在が前提とされていて、例えばサルトーリの分類では中国の政党制はヘゲモニー政党制(競合のない一党優位制)であり、それ以上は政党の性質を考える際にも考察の対象から外されている感があります。しかし、授業では中国共産党は他の政党と並列に述べられている感があります。即ち、政党には様々な類型があり、中国共産党は革命党から執政党に変わりつつあり、党の性質や役割も執政党のものであるといった論調です。当然、先生の政党の定義はこの中国共産党も当てはまるものです。また、政党制度については一党制、両党性(二大政党制)、多党制に分別し、中国は一党領導の下での多党協力制度としています。この「協力(中国語では"合作")」というのが鍵で、対比概念に当たるのが「競争」です。即ち、中国は競争制の民主は採らないぞ、ということです。なかなか面白いですね。なので、体制自体に関しては特に批判的であるというわけではありません。まだまだたくさん問題はあり、民主も自由も法治もできていない部分はたくさんあるが、しかし漸進的に政治改革をしていくべきだというような風です。そのため、先生の主張も中国の国情に沿って、その中でどうやって先生の理想、特に「善きガバナンス("善治")」に近付けていくのかという所に主眼があるように思います。例えば、民主についてはまずは先鋒性を持つ共産党内の民主を進め、それを起点に社会に広めていくべきだといったことや、法治についてもまずは党内の「きまりに依ることを以って党を治める("以依规治党")」ことが法治の起点となるのだといった主張です。なぜか。コストも圧力もそんなに高くないからです。

中国政治を見るにあたって思うこと

 このように、「西洋」と「中国」(そして「中国」は「中国」であって「東洋」ではない)は対比されて述べらることがしばしばあり、日本のようにほぼ完全に直輸入しているのと比べると、態度の上でかなり大きな違いが見られるかと思います。さながら清末のようで、日本が西洋の制度や思想を直輸入したのに比べ、中国では中体西用や附会に見られるように中国オリジナルの思想もかなり重視していたところの別が現代にも幾ばくか表出されているような感覚にさせられます。康有為は言うまでもなく孔教を切り離そうとしなかったし、あの日本語を直輸入した梁啓超でさえも晩年は孟子の考え方を取り入れようとしていました。これが日本とは違った中国の一側面(しかし、あくまでもひとつに過ぎないだろうということは念のために付記しておきますが)なのかなと思います。
 同じ「民主」という言葉でも中国ではそれは現代日本で一般に理解されているような民主主義や代議制とは直接繋がるものではなく、且つ、マルクス主義やレーニン主義にも直接つながるものでもないわけです。日本人は漢字が読めてしまうだけに、慎重に中国の論理を検討しなければ見誤るのだなということを実感しました。
 しかし、そういうところが面白いなと思いますし、特に清末の思想家たちの考えは現代のシステムに対する何らかのヒントを与えてくれることもあるのではないかと思います。

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