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生活と政治と選挙と ー「である」ことと「する」ことー


2021年の千代田区長選挙に出馬された五十嵐朝青さんの応援に少しばかり関わってみて思ったことをつらつらとまとめて書いてみる機会をいただけたので、noteにも保存しておこうかと思います。(投票結果はこちら)

 五十嵐朝青さんに私が初めてお会いしたのは、4年前の冬のことだった。私はまだ高校から出たばかりの18歳、そんな私に対しても等身大で、そして素直で真っ直ぐな眼で接してくれたのが朝青さんであった。2017年千代田区長選挙に初出馬、選挙の前から朝に駅立ちをして、区民と話す。そして、いつの間にか巻き込んでいる。今回もそうであったが、五十嵐朝青陣営は「われわれ」陣営の人と「あなたがた」陣営の外にいる人との区別があまりない。何かしらの機会に朝青さんに会った人がボランティアとして活動したり、支援者として陰に陽に助けていく。街中で朝青さんが声をかけている区民と陣営の中で活動している人との間に本質的な違いはない、そのように感じる。たまたま朝青さんに会う機会に巡りあったかどうかだけの違いである。朝青さんの本意とは少しズレるのかもしれないが、区民ひとりひとりがそれぞれの強みや意志を持つかけがいのない存在であって、いち千代田区民として共に千代田区をマネージメントしていくのだと、そういった想いが溢れていたように思える。それは何か既にある「である」存在や発想に飲み込まれてしまうものではなく、朝青さんその人自身が「する」主体として「もっとよくなる千代田」を実現させていくのだという強いエネルギーとなり、五十嵐朝青陣営を形成していったのではないか。それが、5598人もの区民からの支持につながったのではないかと思う。

 『「である」ことと「する」こと』という副題は丸山眞男の有名な論文から取ってきたものである。彼はこの論文で、政治や経済、社会において「である」価値と「する」価値の倒錯を指摘し、これは「前者の否定しがたい意味をもつ部面に後者がまん延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯」なのだと述べている。1958年の論文である。しかし、この指摘は現代の政治や私たちの生活、特に私の周りにいるいわゆる若い世代たちに対しても妥当する部分があるのではないか。

 ここでいったん私と私たちの世代を射程に置いて考えてみよう。

 私たちの世代はどういった世代か。一言で言えば、「である」ことに慣れきった世代ではないだろうか。私は1998年生まれだが、物心ついて以来自分たちの身のまわりの生活でほとんど変化を感じることはなかった。高度経済成長はもとよりバブルも経験していないし、住んでいる街の様子もあまり変化することはない。物価もほとんど変わらない。日本企業を見てみても、世界の中でメガバンクは没落し、時価総額で見てみるとトヨタ自動車が辛うじてトップ50に入っているぐらいである。世界の中でイノベーションを生むような新興企業で思い浮かぶのはソフトバンクグループ、キーエンスぐらいではないだろうか。事実、世界で500社ほどのユニコーン企業の中で日本企業はわずか数社にとどまる。失われたウン十年と言われていて、その中でも私たちの生活の中における大事件、或いは大変化と言えば2008年の金融危機と2010年の東日本大震災、2010年台のスマホの登場を挙げることができるのだろうが、身の回りの生活に限って言えば大変化を感じるものではない。

 国政でも2009年の政権交代はあったものの特に大きな変化が感じられたわけではなかった。されるがまま、というか「である」状態に馴れきった世代だと感じる。世の中への認識として刻一刻と変わるものというよりなんとなくずっと同じような状態が続いて、それが漸進的に変わっていくのだという平穏な波に乗っかっているような認識の中にいる感覚。社会の大きな変化の波に乗ることはあっても、社会を大きく変えようと何か「する」ことにはほとんど直面してこなかったと言っても過言ではないのではないだろうか。

 それが、コロナで一変した。私たち前後の世代がほぼ生まれてはじめて経験し、実感する大きな生活の変動だと思う。自分たちが住む街では多くの飲食店がなくなったり、あるいは当たり前だったことがそうでなくなったりした。さらに新しいサービスがたくさん生まれ、広まった。1ヶ月後どういう世の中になるか分からないという状況や様々な「善き生き方」の情況に私たちの世代が立たされるのは前代未聞ではないか。諦観的な精神が何かを能動的に「する」精神になっていく契機がこのコロナによって生まれたのではないか。そして、これはもしかしたら日本社会にとって大きな転換点になるのではないかと思った。日本に育った私たちの世代が馴れきっていたエートスへの衝撃は逆に私たちの未来におけるエートスを決定付ける想像以上の未曾有の大事件として、このコロナは位置付けられる予感がしていた。この予感は一部当たり、一部外れたのではないか。私たちの生活は、先の状況が分からない中でそれぞれが動こうとしていた。例えば、朝ランニングを始めたり、公園に行って運動してみたり、今まで集まれなかった人でゼミを始めたりといったことがあった。その一方で、GoToが使えるや否や旅行に出かけ、(法的拘束力がほとんどない)緊急事態宣言が発令されるや否やそれを私たちの行動のほぼ絶対的な基準とする。自覚的に「する」精神が生まれてきたとは言い難いのではないか。特に、政治においてはそれが顕著である。コロナ下での政治と生活がよりべったりくっついてきている中で、政治に対する「である」精神がそのまま生活にまで流れ込んでいる。

 そういった生活の中に生きる私から見た朝青さんはまさに果敢にも政治の世界において「する」精神をほぼ貫き通すのみならず現実に実践された方として、ハッとさせられるものがあった。千代田区において「対立から対話へ」の政治、そして区民に根差した政治をすること。そして、ワクワクするような活力に溢れた千代田区にしていくこと。これは今の制度設計のもとで、区民に嘘をつくことなく首尾一貫させて訴えていくには大変困難なものであったと思う。すなわち、選挙という制度設計の中で戦略的に考えるならば極めてコスパが悪いやり方であったのではないかと思うのである。「政治と選挙は別だ」このような言い方をこの選挙ではよく耳にしたが、これはこの選挙制度に代表される代表制民主主義のバグを端的に言いあらわしたものではないだろうか。本来、代表制民主主義における選挙制度のひとつの理解として、有権者と政治家とがもっとも近づく機会であると捉えることができるだろう。制度設計上、有権者の生活に政治がもっとも多く入り込んでくる機会であって、それぞれの政治家を比較して自らの代表を責任を持って選ぶ機会であるからだ。つまり、当為の問題としては政治と選挙は別になってはいけない。しかし、そんなに甘い選挙はあり得ないということはど素人の自分でも少しは理解できる。

 本で見かけるような昭和の選挙と比べれば相当マシになったと言えるかもしれないが、今でも既得権益や「正しさ」とは無縁な特殊な利益、甘い撒餌をチラつかせるやり方の方がやりやすいということは否定することが難しいだろう。こういった事実の存在がここにはあると認めざるを得ない。しかも政治家というのは大野伴睦が「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」と言ったように、当選するか否かで天と地ほどの差がある。千代田区長選挙の場合であれば、片や4年間首長として腰を据えてその権力と権威を用いて様々なことをすることでき、片や無職である。こういった事実の存在の前に当為の問題は極めて弱いのだと思う。もちろん、例えば多元主義論的な考え方のもとで様々な人の利益を代表するという意味でこうした事実をひとつの民主主義のあり方だと肯定的に捉える見方もできるだろう。しかし、そうであっても選挙は政治と別ではいけないのであって、選挙が政治のための単なる手段であってはいけないのだと思う。そういった意味で、選挙と当為の問題を結びつけることは大変困難なことだろう。そして、この現実の中で2021年の千代田区長選挙が戦われていた。他候補の動きを見てみても、自陣営の様々な動きを見てみても、そして駅立ちなどでの反応を見てみてもこの現実は私であっても実感することができた。そういった事実が存在する中で、朝青さんは自身が実現しようとする政治を選挙においてしっかりと有権者に示し、呼びかけていた。これは私にとって大変印象深かった。しかも、それを主張するのみならず(選挙期間前もずっとそうであったが)自らの身をもって行動していること、そして五十嵐朝青陣営がそれぞれの方が思うところはあったにせよ、しかし団結して明るく楽しい雰囲気の中で朝青さんを支えていたことは、「である」世界に馴れきっていた私にとっては改めて身をただされるような心持ちがした。そして、様々な形で朝青さんを支援されていた方も、何かひとつのチームのようなものとして朝青さんのパワーを引き出していたように思える。

 例えば、事務所では皆がすぐ打ち解けるような雰囲気作りをしていたり、「もっとよくなる千代田」ソングをつくってみたり、選挙期間中は他の候補者の誰よりも多く街に足を運んでできるだけたくさんの区民と対話をして、自分の想いを伝え、区民の想いを受け止めようとしていた。雨の日でも雪の日でも、それは変わらなかった。それはまさに「である」世界に飲み込まれていくのではなく、「する」ことで周りの人を巻き込みながら千代田区の政治を良くいこうとするものだったと思う。もう少しなと思う部分もあるが(例えば政策について詰めが甘かったり、区長報酬カットを押し出すのはさすがに正当化できないだろうということだったり)、現実にある事実の存在に対して真摯に向き合いつつも、正面から正直に区民と向き合って、実現したい千代田区の政治を訴え続けたその姿勢は私たちが見習わなければならないと思った。そこには何か、より良きものをなんとか試行錯誤しながらつくり出して変えていこうとする、また、今ある良きものを不断に見つめて生きたものとして守っていこうとするようなエネルギーやパワーを感じるものだった。まさに惰性とは対極にある、活力に満ちた営みであったように思う。

 そして、これが5598票という結果につながった。これを多いと見るだろうか?少ないと見るだろうか?上述した難しい状況の中で4年前を大きく上回ったという肯定的な見方もできるし、逆にあんなに誠実に訴え続けていて手応えもあったのにやっぱりダメだったかという見方もできるだろう。実際、当選した都ファの樋口区長とは大きく水を開けられてしまった。私はどちらかと言えば後者の方である。選挙戦終盤、反応も良くなってきたし肌感覚としてうまくいくのではないかという気持ちであった。私が担当していた朝青さんのSNSでもだんだん反応が増えてきたりと、少しずつ伝わっていたのかなと思っていただけにとても悔しかった。5598票の重みも感じつつも、思っていたより全然伝わっていなかったのだと思った。個人的な気持ちで言えば、今回、選挙に関わらせていただいて何か当選のための力になることができればと思って政策や、SNSで何かできればと思ってやっていたが、その無力さを感じた。何というか、結局力が無くてまだまだ大人の手伝いを少しできるに過ぎない子供だなと思った。話を戻すと、選挙において「する」営みを行うこと、今回で言えば誠実な態度で有権者に朝青さんというコンテンツをうまく伝え、健全な地方の民主主義を追求していくことがこんなにも困難なことかと思った。

 私たちの日々の生活の中で、政治は割と近いところにあるのに選挙というもの、特に地方自治体の選挙は少し遠い存在であるように思う。ここで選挙というのは何も投票に行く行為そのものではなしに候補者のポスターやビラをチラッと見たり、演説を聞いてみたり、ネットで見かけたりすることなど、これから数年間の政治を担う代議士を選ぼうとする行為である。特に、よく言われているように私たちの世代はそうだと思うし、これは今回の選挙でも感じたことであった。しかし、だからと言って私はそれが全くおかしいのだ、とは思わない。なぜなら私が思うに、私たちはそんなに暇ではないし、日常を送ることで精一杯だし、何より自らの政治の代表を選ぶという「する」ことに対してあまり魅力を感じないからだ。政治に関しては、税金だったり政策だったり生活の中に入り込んでいて近い存在であるが、基本的には「である」ことに対する反応である。私たちは生活の中でも何か活力を持った「する」ことに対して慣れていないのではないかと思う(例えば大学生、特に多くの東大生の就活が良い例ではないか)。「する」ということは、ひとりひとりがそれぞれの自由な理性と感性を信頼し、他者との関わり合いのなかでその輝きを発揮させていくことであると思う。話を広げすぎだと怒られそうだが、そういったことが私たちはなかなかできていないのではないか。千代田区長選挙について言えば、私たちが選ぶのだという感覚の希薄さを感じたし、朝青さんの活力やエネルギーが思っていたより伝わらなかった(これは贔屓が入っているかもしれないが)。私自身も活力なき自分に改めて気付かされたような気がする。今回の選挙を通じて、朝青さんや五十嵐朝青陣営をずっと見ていて、そういった「する」営みを生活の中でもっと大切にしていかなければならないかなと思った。断定的になってしまう嫌いを恐れずに言えば、これは私たち若い世代ももっと意識していかなければならないのではないか。それが、未来における自由で開かれた活力のある日本の人々の生活をつくっていくのではないかと思う。

 そのために、まずは活力のある自分を、日常の中で自分の理性と感性を絶えず磨いていきたい。「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、硬い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」。マックス・ウェーバーの有名な言葉であるが、これを実感した選挙であった。私はこれを生活の中からじわっじわっとやっていきたい。まとまらない文章になってしまって、うまく文章に紡ぎ出すこともなかなかできていないが、これは今後の自分の課題にしていきたい。そして、今後も朝青さんから色々学んでいきたいと思う。

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