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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第4章 按司の時代(2)③

3.三山の入貢と支那人の移住

 【解説】
 前回の続きである。1回にしては長かったので分割しただけで、他意はない。重複している部分(支那の文物のすばらしさ云々の個所が原文には2度でてくる)についてはまとめておいた。
 「永楽帝の停戦の奉勅」と「久米三十六姓」については、もう少し詳しく書いた方が良いのかもしれないが、一応ベースが中学生向けということなので、ここでは簡単に書き加えるにとどめた。後日研究の上で加筆したいと思う。前者についてネット上に資料が見当たらず、読者からご指摘をいただければ幸いである。
 尚、初代南山王となる承察度の入貢は1380年であり、原文は明らかに誤植であると思われる。
 ところで、Wikipediaの「北山王国」の項で、中共で作成されたと思われる三山時代の地図が掲げられている。非常に不適切なので何とかしたいのだが…。とりあえず、日本語版の「三山時代」の地図を作成したので、ここに掲げておく。Wikipediaにアップできる人に手伝っていただければありがたい。

【本文】
  先進国であった明との通交が始まったことは、まだ文化レベルが低かった沖縄の人々にとっては大きな事件でした。使いに行った人々も、衣食住をはじめとして、見るもの聞くものすべてが、桁違いに進んでいることに驚いたに違いありません。支那の高度な文化に対して、沖縄の人々は深い興味と関心を覚えました。
 航海の危険を冒しても明と交易をおこなった理由は、沖縄では作ることができない実用品に対する強い欲求のあらわれだと思われます。明からもたらされたのは、土鍋に代わる鉄の鍋や陶磁器、木の農具に代わる鉄の鎌や鍬。それらを何とか手に入れたいので、貢物を持って行って、皇帝に頭を下げたのです。
 察度を称えたオモロに、「謝名もいは、誰(た)が生(な)もやる子(くわ)が……百(もも)ちゃら(百按司)のあぐで居たる、くちや口……謝名もいしゆあけたれ……」というのがあります。
 「謝名殿(「もい」は「思い」の意で敬愛を示すことばです)は、誰が生んだ子か、すべての按司が待ちに待っていた、くちや(「裏座敷」のことで
すが、もとは大切な物を入れておく部屋を意味しました)の口を、謝名殿こそが開けた」という意味です。
 その頃、島尻の大里按司、国頭の今帰仁按司も、日本本土、明、高麗と通交していましたが、察度はその後、ほとんど毎年入貢していました。それで大里按司、承察度(しょうさっと、うふさと、1337?~1398?)もそれに倣って1380年以来何度か朝貢してきたので、1385年に明はこれを南山王と認め、中山王と同じように扱うようになりました。
 この頃、三山がたえず攻争しているのを見た永楽帝(1360~1424)は1383年1月、三国間の停戦の奉勅を下し、民をいたわること、あわせて朝貢することを命じました。これをみた三王は怖れ、使を出して皇帝に謝罪しました。
 今帰仁の伯尼芝(はにじ)按司も、この時はじめて使を出し、北山王に封ぜられました。その後、三国からたびたび使を出すようになりました。
 

三山時代の沖縄2


1393年に中山と南山は3人ずつの留学生を北京の大学におくり、その後も留学生が行くようになりました。
 この時には、すでに日本の本土から仮名文字が伝わっており、沖縄でも学問が少しずつ始まりました。
 一方、1391年には福建から支那人が移住してきて、久米村を作りました。彼らは「久米三十六姓」と呼ばれました。先進国からきた久米三十六姓は、その後政治的、経済的に沖縄を支配するようになり、その末裔は今日に至るまで沖縄県で大きな影響力を持っています。
 察度は1389年には高麗へも使をやり、その後は100年間に30回以上も行き来しています。ベトナムやシャム(タイ)などとの通交もこの頃にはじまりました。

【原文】
 この一二年のできごとはまだ文化のひくかった沖繩の人々にとっては大きな事件です。使いに行った人々も、見るもの聞くことすべてがおどろきでないものはなかったでしょう。衣・食・住をはじめとしてあらゆるものが、けたちがいにすゝんでいることにおどろいたにちがいありません。
 又明の使いがもって来た陶器・磁器のすばらしさ、鉄器-おもに鍋・釜というが、農具もあったでしょう-の便利さ! 中国に対しふかい興味と尊敬をかんじたことは高い文化に対するあこがれと実利です。航海のきけんをおかして貢物をもって行った理由は、向うの実用品に対するつよい欲求のあらわれです。こわれやすい土鍋にかわる鉄鍋、木のくわにかわる鉄くわ、これを手に入れられる国が明のくにです。
     察度をほめたオモロに、「謝名もいは、誰(た)が生(な)もやる子
    (くわ)が…百(もも)ちゃら(百按司)のあぐで居たる、くちや口…
    謝名もいしゆあけたれ…」というのがあります。
     「謝名殿(もいは思いの意で敬愛を示す)は、誰が生んだ子か、
    すべての按司が待ちに待っていた、くちやの口を謝名殿こそあけた
    れ」ということです。くちやはうら座敷のことですが、もとは大切
    な物を入れておく部屋のこと。
 察度はその後ほとんど毎年、進貢しているので、島尻の大里按司、承察度も一四八三年(編註。最初の入貢は1380年なので、これは誤植だと思われる)これにならい明はこれを南山王とみとめ、中山王とおなじようにあつかいました。当時三地方の王がたえず攻争しているので、明は使をやり三人に「琉球の三王つねに争い、農をすて、民をいためているのは、よくないではないか。すぐに争いをやめ人民を大切にしろ…きかなければ承知しないぞ…後悔するな」とさとされた。三王ともかしこまり使を出してわびました。国頭の伯尼芝(はにじ)按司もこの時はじめて使を出し、三王ともそれからたびたび使を出しています。
 一三九三年に中山と南山は三人ずつの学生を北京におくり、大学に入れたが、その後も学生が行っています。
 この時には、すでに日本から仮名文字がつたわっており、又一三九一年には福建から中国人が久米村に移住していますから、学問もぼつぼつはじまっています。
 察度は一三八九年に朝鮮へも使をやり、その後百年の間に三十回以上も朝鮮と行き来しています。安南・シャム等南方との交通もはじまっています。

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