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自虐教科書の病理① 自由民権運動~民権派はなぜ弾圧を受けたのか

 子供たちが学校で使う教科書の偏向は、もう昭和30年から指摘されていますが、その傾向はますますひどくなっています。偽南京事件や偽慰安婦問題を載せていることはその象徴です。このテーマは、当時の小学校教科書の分析をベースにしていますが、今でもほとんど変化はありません。子供たちはインターネットで正しい情報を知っています。教科書だけが史実と違っていることが続いているのは異常事態だと言えるでしょう。もっともこの傾向はアメリカにもあるようで、自虐が美徳だという歪んだ価値観を自由主義社会に浸透させる策動があるように思われます。親御さんはお子さんの教科書に関心を持ってください。文科省を動かせるのは、保護者の声です。

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 明治10(1877)年、西南の役で「百姓・町人の軍隊」が鹿児島士族を平定したことなどをきっかけに、不平士族が、板垣退助らの自由民権運動に結集しました。その後政府と対立しながら民権派が勢力を伸ばしていきました。教科書では、明治政府が言論や集会の自由を厳しく取り締まる中、その圧力にも屈せず、自由民権運動が、憲政の実現の主導権をとった、というような歪んだストーリーとなっています。
 しかし、既に慶応4(1868)年に出された『五箇条の御誓文』に「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」とあるように、議会開設は明治政府の宿題であり、その実現に向けて、漸進的ではありますが、奔走していた事実が考慮されていません。もちろんその過程で、自由民権運動が弾圧されたことも事実ですが、そもそも彼らの要求は、立憲政治の実現であり、その目指すところは政府と同じでした。取り締まりを受けたのは、その言論が過激であったことが法に触れたからなのです。
 一方、教科書が黙して語らないのは、対外強硬的な意見が、自由民権派の中に共通して見出せることです。運動家たちは「国民国家は必ず植民地を持つ」という、当時の国際社会でごく当たり前に思われていた事柄を、明治政府に要求しました。「内にデモクラシー、外に植民地主義」という考えが自由民権運動の根幹をなしているのです。
 さらに、教科書で「手柄」のように紹介されている「事件」の中には、立憲政治の要求と全く関係のないものまで含まれています。例えば、明治17年の「名古屋事件」は挙兵資金集めのための強盗殺人事件に過ぎません。翌年の「大阪事件」は、朝鮮でのテロを目的に武器を準備して密航を目論んでいたというものです。これらを十把一からげに自由民権運動しても、板垣や後藤象二郎は納得しないでしょう。さらに、小学校の教科書から取り上げられている、明治17年の「秩父事件」などは、自由民権運動とは殆ど関係がありません。確かに、事件で秩父を占拠した困民党のメンバーには、自由党員が紛れていたようではありますが、それをもって、博徒が指揮した農民一揆を、自由民権運動と同一視してしまうのは余りにも杜撰というものです。
 明治初年の一連の激化運動を手放しで評価する裏には、マルクス主義に根差す陳腐な暴力革命思想にノスタルジーを感じ、「民衆」が歴史を作ってきたと信じている、一部の似非歴史学者の史観があるのです。
 自由民権運動の活動家たちは、明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布を手放しで喜びました。明治天皇が『五箇条の御誓文』で約束されていた「国憲」がようやく現実のものとなったからです。漸進主義の政府に対し、民権派は急進主義、過激主義でしたが、わが国を一等国にするという共通の目標を持っていたのです。ところが教科書は、あれほど持ち上げた民権家が狂喜したにも関わらず、その事実は無視して、今度はその憲法の内容を斜めから読んで噛みつき、それをまともに評価しようとすらしないのです。

連載第43 回/平成11 年2月9日掲載

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