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外交家列伝⑧ 東郷茂徳(1882~1950年)

 東郷茂徳は明治15(1882) 年、鹿児島県に生まれました。東京帝国大学卒業後、大正元(1912)年に外交官となり、駐独大使、駐ソ大使などを経て、開戦直前の昭和16(1941)年10月に、東条英機内閣に外相として入閣しました。
 東条は前内閣(第3次近衛文麿内閣)の陸相でした。東条が日米開戦回避のために進めていた日米交渉に対して、特に中国での駐兵問題で強行意見を曲げなかったため、近衛は内閣を投げ出していたのです。東郷は入閣要請に対し、日米交渉に全力を挙げるという条件を提示し、東条もそれにおおむね合意したので入閣を決意しました。実は東条も、昭和天皇の思し召しもあり、一時強硬論を引っ込めて日米交渉に真剣に取り組もうとしていたのです。
 ところが11月になって、米国務長官コーデル・ハルは、野村吉三郎、来栖三郎両大使に対して、いわゆる「ハル・ノート」を手交しました。それは、今までの交渉での日本側の譲歩を全く無視したもので、当時、最後通牒に等しいと誰もが思ったのです。何とか戦争回避をと両大使を支えていた東郷でしたが、「ハル・ノート」を見た後は「働く熱を失った」と述懐しています。
 自分の意志に反して戦争になるのは心苦しく、単独辞職も考えましたが、結局思い留まり、東郷は開戦の日を迎えたのでした。真珠湾攻撃が大使館員の怠慢により「奇襲攻撃」となってしまったことは、東郷の苦悩をさらに深めたことと思われます。
 戦局が悪化し、東条が更迭されて小磯国昭内閣になっても、ただ徒らに時間を浪費するのみでした。大戦中に貴族院議員になっていた東郷は、昭和20 年3月に議会が閉会となると、空襲を避けて軽井沢に疎開しました。そこへ鈴木貫太郎海軍大将から連絡が入り、外相として自分の内閣に入閣してほしいとの要請があったのです。東郷は、鈴木から外交面での全権を委任されたこともあり、終戦に向けて努力する決意を固めたのでした。鈴木自身も、マスコミなどには本音を漏らしませんでした。しかし長く昭和天皇の側近を務めた彼には、天皇が一日も早い終戦を望んでおられることがよくわかっていたので、表面的には強硬論を吐いていましたが、心は東郷とひとつでした。
 「中立国」ソ連に、早期終戦への一縷の望みを託した東郷でしたが、すでにヤルタの密約で、日本の領土と交換に火事場泥棒的参戦を決意していたソ連側は、日ソ中立条約の延長を拒絶し、さらには、長崎に原子爆弾が投下された8月9日に、まだ有効であった同条約を蹂躙して侵略の手を伸ばしてきたのです。同日の御前会議で、本土決戦を唱える阿南惟幾陸相と、ポツダム宣言受諾を唱える東郷の意見が真っ向から対立し、鈴木首相から聖断を促された昭和天皇は「外務大臣の意見に賛成である」と静かに仰ったのでした。
 開戦と終戦という最も多難なときに外相を務め、平和を追求した東郷。その東郷が戦犯として逮捕され、「東京裁判」でA級戦犯として禁固20 年の刑を言い渡され、拘禁されたまま病没したことは、運命とはいえ余りにも理不尽です。これだけでも、「東京裁判」が裁判の名に値しないものだという
ことがよくわかります。

連載第31 回/平成10 年11 月10 日掲載

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