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「都市の中の南北問題」の巻

 南北問題という言葉を最近は余り聞かない。ご承知の通り、南半球に発展途上国が多く、北半球に先進国が多いということから、国家間の経済格差の問題をこのように呼んだのだが、いったいどこへいったのだろう。
 確かに、南北という言葉には実態を反映していない部分もある。偉大な首領様が作った、偉大な将軍様が指導する某国家(とも呼べない状態だが)は北半球にあるし、一応先進国と目されるオーストラリアやニュージーランドは南半球にある。実態を反映していないということが、この言葉が死語になりつつあることの理由なのかも知れない。ただ、民族自決という言葉が、少数民族を弾圧し続けている中共ナチスやロシアに都合が悪いから、全然使われなくなっているのと同じように、何か不都合な理由があるのかもしれない。
 アメリカの都市では住み分けが起こっている。筆者の狭い経験だけで言うと、金持ちは街の北に住み、貧乏人は街の南に住む傾向がある。小さいベッドタウンなどは別だが、例えば、ロサンゼルス。街の北にあったハリウッドは高級住宅も多いが、こちらはLAから独立した市になってしまった。南はあのサウス・ロサンゼルスだ。
 この写真に紹介する、中央カリフォルニアの中心都市であるフレズノもそうだ。
 冒頭の写真と、下の写真(いずれも2009年6月22日撮影)、を見ていただきたい。

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 走行中の車から撮ったのでちょっとわかりにくいのだが、この大きな住宅には駐車場ならぬ、駐機場がある。そう、前に伸びているのは単なる道路ではなく、自家用飛行機のための滑走路なのだ。「道路」のつけ方が不自然に見えるのは、それが道路ではないからなのだ。
 どんな人が住んでいるのか? この家の主たちは、毎朝飛行機を自ら操縦して、ロサンゼルスあたりの自分の会社に出勤しているのだとか。30年前の漫画に描かれた21世紀のような話だ。この住宅地があるのが、街の北西の外れで、カリフォルニアを南北に、都市伝いにつなぐ高速道路99号線にも近い。
 ところが勿論、飛行機通勤ができるのはごく一握りの人だけで、実際には我々同様、車やバスで通勤している。普通の市民が住むのが街の大部分だ。
 フレズノのダウンタウンは南の外れにある。そして、ダウンタウンからちょっと南に行くと、この街にもスラムがあるのだ。
 この構造は、ロサンゼルス(ダウンタウンの外れにあるリトルトーキョーからちょっと出ると、すぐにスラムになる)とよく似ている。
 下の2葉の写真(いずれも2009年6月23日撮影)も、高速運転中に車内から撮ったフレズノのスラムの入り口だ。

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 このスラムのおかげかどうかはしらないけれど、写真を見たらわかるように、自動車専用道路の出口は閉鎖されてしまっている。しかもそれは何箇所かあり、完全にこのスラムが隔離されているかのような印象を受ける。勿論、スラムの北側には「一般社会」への出口はあるのだが…。
 この街の恥部でもあるスラムをどうするか、そこに住まうホームレスをどうするかというのは、当時フレズノ市長選挙でも争点になったようなのだが、新市長就任後も、スラムはほったらかしのままだった。少なくとも部外者である筆者が見る限りでは。
 都市とは一種の病気(もっと正確に言えば、シンドローム)なのだと筆者は考える。病気だから、いろんな症状が出てくる。そしてそれは、都市に共通のものだ。それに気づいている人は、別に社会学者でなくても、結構たくさんいると思うのだが、対症療法がうまくいっている都市を見ることは稀だ。
 1950年代には、社会主義がその特効薬であるかのように喧伝されたのだが、それはプラシーボ以下のまがい物だった。そしてその副作用が、さらに症状を悪化させた。否、今もその傾向は続いている。折しも、武漢肺炎禍に世界中が震撼させられている中、ワクチン協奏曲が喧しい。ワクチンがプラシーボでないことを祈りたいが、私は打ちたくない。人体実験はご免だ。
 もとい。
 都市の病気を放置することは、南北問題という言葉をいつの間にか使わなくなった、無責任な国際社会と、同じことをしているような気がする。そもそも国際社会に責任を求めるのが間違いなのだが。

拙ブログ『無闇にアメリカに来てはいけない』より「都市の中の南北問題」(2009年06月29日11:20付)に加筆修正した。

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