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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第4章 按司の時代(2)④

4.中継貿易で栄えた沖縄

【解説】
 朝貢貿易の説明は、前回の記事とひとまとめにする方が良いのだが、仲原は筆は前後する、あまり元の文章を崩したくないので、ここでも朝貢貿易についてそのまま書いたが、いずれ前の文章と統合してすっきりさせたいと思う。
 日本との貿易については、もう少し詳細が欲しいところなのだが、こちらも資料があればご示唆いただきたいと思う。
 尚、章末の「問題」は、原文は少し本題から外れていたので、本文の内容に沿ったものの方が良いと考え、一部完全に差し替えた。

【本文】
 その時代、日本との貿易はどうだったのでしょうか。
 英祖の時代の1274年と1281年に、モンゴル(元)とその属国となった高麗(朝鮮)の大軍が、朝貢を拒んだ日本を襲ってきましたが、鎌倉武士の果敢な抵抗により敗退しました。またその後は、西日本を根拠地とする「倭寇」と呼ばれる武装商船団が、朝鮮、支那の沿岸で密貿易を行い、商売がうまくいかない場合には港湾を荒らしまわっており、その間、支那大陸と日本との正式の通交は途絶え、支那の陶磁器や絹織物などを入手する術はありませんでした。
 そんな時期に沖縄は、表面上は明の臣下として取引を行う朝貢貿易ができたので、日本と明を結ぶ中継地点として脚光を浴びました。沖縄は日本の品を明に持ち込み、明の品を日本に持ち込んでビジネスを行いました。いわゆる中継貿易です。沖縄の人々が中世の約200年間、海外に勇躍して活動したのは、このような条件があったからです。
 明との貿易は、朝鮮や南方との対等貿易とは異なり、あくまでも朝貢貿易だったので、貢物を捧げて皇帝を喜ばせ、持参したしたその他の品物を高く買ってもらうという、皇帝のお情けにたよる貿易でした。
 沖縄から輸出したものは、馬と鳥島産の硫黄、工芸品に使う貝がらなどで、明からは鉄製の鍋釜、陶磁器、織物などを持って来ました。この貿易品が両国の文化の差をはっきりと示しています。
 また沖縄の貿易は、王の貿易であって民間人の貿易ではありません。だから庶民に直接の利益が還元されたわけではありませんが、鉄製の農具や鍋釜が行きわたることで生産力を高め、また学問、宗教、工芸、技術などの輸入によって、人々の生活を豊かにしていったことは間違いありません。

【問題】
 一、三山というのは今のどの地方を指しますか。また中心になったのはどこですか。
 二、明の冊封を受けた三山の最初の王は誰ですか。
 三、明との朝貢貿易にはどのような利益がありましたか。
 四、沖縄が中継貿易で栄えた理由は何ですか。

【原文】
三、貿易の性質
 その時代、日本との貿易はどうか。一二七四年と八一年(英祖時代)に中国(元)の大軍が日本をおそって敗退し、中国と日本との交わりはとだえた上に日本の海賊船がさかんに朝鮮・中国の沿岸をあらしています。日本も中国の陶磁器その他のものをのぞんでいるがこれを手に入れる方法がない。即ち平和的方法で中国と日本をむすぶことは沖繩をとおす外はありません。約二百年間の沖繩人の海外活動はかような条件を考えておく必要があります。
 朝鮮・南方との貿易とはちがい、中国とは対等の立場で商業取引をしたのではありません。
 表面上は明の臣下のような形式の下に行われた取引で、貢をあげて向うをよろこばしこちらのものを高く、買ってもらうおなさけ貿易でありました。
 貿易品は二種類あります。一は馬・硫黄(鳥島産)、貝がら等をあげて、向うから鉄の鍋釜と陶磁器・織物などをもって来る貿易、これが両国の文化の差をはっきりと示しています。二は他国の品物を買って次の国に売るいわゆる仲つぎ貿易です。又この貿易は王の貿易であって人民の貿易ではありません。しかし農具や鍋釜が行きわたることは人民の生産力をたかめ生活をゆたかにし、学問・宗教・工芸・技術の輸入によって一般文化をすゝめて行ったことが少くなかったことは大きな利益といわなければなりません。
【問題】
 一、三山というのは今のどの地方をさしますか。
 二、中国貿易はどんな利益がありましたか。
 三、その時の貿易と今の貿易とどうちがいますか。
 四、今の沖繩からどういう品物をゆしゅつしていますか。

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