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大正時代を知っていますか?④ 民主化の流れを止めたテロリズム

 「 開かれた皇室」という言葉があります。天皇陛下が皇太子だった頃、皇后陛下(当時妃殿下)の心労に対するお心遣いからなさった、記者会見での異例のご発言は、皇室や宮内庁の情報が、相変わらず閉ざされているということを、改めて国民に知らせる結果となりました。
 もっとも 、戦前に比べれば、皇室の情報もずいぶんオープンになりました。しかし、大正時代にはすでに「開かれた皇室」ブームがありました。その仕掛け人は原敬でした。
 大正 9(1920)年6月、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と久邇宮良子女王(後の香淳皇后)のご婚約が発表され、奉祝ムードが国中に広がりました。12 月になって、女王が色盲の家計であるということで、山県有朋が婚約解消を主張して水を差しました(これを「宮中某重大事件」と言います)が、結局最終的には「御婚約には何等変更なし」と宮内省がプレス発表して一件落着となりました。そこには皇太子の意志が強く働いていたとも伝えられています。この事件は、かなり広く世間に流布していたと見え、首相だった原敬は、宮内省に警戒を促してもいます。
 大正の「開かれた皇室」ブームのピークは、翌年3月から9月にかけての皇太子の御洋行です。前例のないことで、遅々として進まなかった準備も、原の手腕で解決されました。この旅行を通じて皇太子は、立憲君主としての資質を更に磨かれたのです。御簾の外に飛び出したプリンスの姿はマスコミを賑わし、まさに皇室は開かれたものになりつつあったのです。
 ところが大正 12 年12 月、皇太子暗殺を企てたテロ事件(虎の門事件) によって、開きかけた皇室の重い扉は、再び堅く閉ざされることになるのです。
 さて、原は、政治的な民主化という面でも大きな足跡を残しています。彼は大日本帝国憲法下において、文民統制(シビリアンコントロール)への布石を行っていたのです。従来、海軍軍人から台湾総督が、陸軍軍人から朝鮮総督が選ばれていましたが、原は大正8年に台湾・朝鮮両総督府の官制を改正して文民総督派遣への道を拓き、台湾に初めての文官総督・田健次郎を派遣しました。
 また大正 10 年に、ワシントン会議に加藤友三郎海相を派遣することになったとき、原は自ら「海軍大臣臨時事務管理」に就任しています。
 当時、軍部大臣現役武官制は撤廃されていましたが、文官が軍部大臣のハンコを預かるというのは画期的なことでした。海軍は便宜的な措置としてこれを歓迎しましたが、陸軍はこの措置に不満を持っていました。しかし原はその反対を巧みにかわし、文官でも海軍大臣の臨時代理を行うことができる、という大きな前例を作りました。原は日記に「今回は陸軍の顔を立てたが、陸軍も同様の措置を執らざるを得なくなるのは時間の問題だ」という趣旨のことを書き付けています。
 この前例は、文民統制への大きな一歩となるはずでした。ところが原は、それから1ヶ月もたたないうちに、テロリストによって暗殺されてしまうのです。残念ながら、戦前の文民統制は、それ以上進むことはありませんでした。
 「開かれた皇室」と文民統制への芽を摘んでしまったのは、軍ではなく民間人によるテロでした。このように当時のわが国の民度は、原が普通選挙を「時期尚早」としたのもしかたがないほど、レベルの低いものだったと言えるのです。

連載第19回/平成10 年8月22日掲載

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