ペ・ポンギさんの人生を改めて胸に刻み、問う
日本軍「慰安婦」問題が社会問題として、日本政府に謝罪と補償を求め、国家責任が問われる問題としてたちあらわれたのは、1991年に韓国の金学順さんが名乗り出られてからです。
ところが金学順さんが名乗り出られる前から、日本軍「慰安婦」被害者だとわかっている人が、少ないながらもいました。これからお話しする裴奉奇(ペ・ポンギ)さんも、金学順さんが名乗り出られる前から知られており、書籍やドキュメンタリー映画でも紹介されていました。
特に1987年に出版された川田文子さんの『赤瓦の家』は、私たちにとって衝撃的でした。金学順さんが名乗り出られる前は、「慰安婦」については知られていながらも、どのような人生を送ってこられてどのような被害に遭われたのか、具体的に知ることはかないませんでした。ペ・ポンギさんの人生を丹念に追った川田文子さんの『赤瓦の家』だけが、リアルに「慰安婦」を知る唯一の著作だったのです。
今日はペ・ポンギさんの人生を振り返りながら、私たちにとってペ・ポンギさんとはいったいなにであったのかということを皆様とともに考えたいと思います。
1,ペ・ポンギさんが沖縄に行くまで
ペ・ポンギさんは朝鮮半島から沖縄・渡嘉敷島の慰安所に連れてこられ、戦後も沖縄に取り残されました。
ぺ・ポンギさんのことが世に知られた理由は、彼女の在留権の問題でした。1972年に沖縄が日本に復帰する。そうなると沖縄にいた在日朝鮮人に、特別在留許可(永住権)が必要になるわけです。ポンギさんが沖縄に暮らし続けるために、強制送還されないために、なぜ沖縄にいるのか明らかにしなければならなかった。そういう理由からペ・ポンギさんが元「慰安婦」であったということが世間に知られたのです。
ぺ・ポンギさんは1914年忠清南道出身です。とても貧しい家に生まれ、ポンギさんが6歳の時に一家離散しています。父親は作男としてよその農家に雇われ、ポンギさんと一緒に暮らしていません。母親は「死んだか、わからん」とポンギさんが語っています。2つ上の姉もよそに奉公に出されていました。なのでポンギさんは6歳の時、3歳の弟と二人で暮らしていました。当然親戚などが近所にいたのでしょうけれど、想像を絶する貧困です。
けれどこれはポンギさんの家が特別に貧困だったということではありません。植民地支配とはこういうことだからです。朝鮮総督府が行った産米殖産計画は、日本へ米を送る一方朝鮮人の口に米が入らないような仕組みを作りました。大地主への土地集積が進み、離農者が続出しました。ポンギさんの生家も、こういう日本の植民地支配による被害者だったのです。
ポンギさんも6歳で他の家に売られるような形で奉公に出され、17歳で結婚させられますがこれも貧困のために破綻。20歳のころから職を求めて朝鮮各地を転々とします。そして30歳の時、興南という町で日本人と朝鮮人2人組の紹介人に声をかけられます。興南という町は元々小さな村でしたが、植民地支配のもとで電力、鉄道、製鉄、火薬、肥料会社が次々と設立され、巨大工業都市に変貌します。水俣病を起こした会社であるチッソもこの興南に工場を作り、同じように水銀被害を起こしています。中国侵略の兵站部を担う重要都市でした。
ともあれそんな都市でポンギさんは声をかけられ、沖縄の慰安所に連れて行かれることになるのです。「南の島に行って働けば、金が儲かる。黙って寝ていても、バナナが口に入る」と言われたそうなのですけれど、連れて行かれた沖縄にはそんなバナナはもちろんありませんでした。
渡嘉敷島には震洋というベニヤ板で作られた特攻挺の基地を作っていました。米軍が沖縄に上陸するときに背後から特攻攻撃をかけようという計画だったのですけれど、米軍の激しい爆撃のために特攻は実現しませんでした。ともあれそんな事情で渡嘉敷島には200人の軍人と200人の朝鮮人軍夫がいました。そして町はずれの仲村渠家という赤瓦の家が慰安所として接収され、7人の女性がそこに入れられたのです。
15歳くらいのまだ若いアイコとミッちゃん。故郷の実家に4歳の娘を預けてきたというハルコ。口数少ないカズコ。中国の慰安所にいたキクマル。愛嬌のあるスズラン。29歳最年長のアキコ(ポンギさん)。特にまだ若く何も知らされずに連れてこられたと思われるアイコとミッちゃんは、慰安所についたばかりのころは泣き暮らしていたといいます。ペ・ポンギさん自身はあまり認めようとはしませんでしたが、ポンギさんもいつも泣いていたという証言が残っています。
ポンギさんは正月に差し入れられたお酒を飲んでみんなで泣き明かしたという証言をしています。
ポンギさんに親きょうだいと呼べる人はいたのかいなかったのか。なにしろ数え6歳で一家離散です。何を思ってポンギさんは泣いていたのでしょうか。いずれにせよ、誰もが泣かずにはおれない状況だっということです、慰安所というところは。
2,ペ・ポンギさんの戦争と戦後
1944年3月23日、渡嘉敷島でも米軍の攻撃が始まりました。赤瓦の家の慰安所も爆撃され、故郷に4歳の娘を残してきたと言っていたハルコは死亡します。アイコとミッちゃんも足に負傷を負い、ポンギさんたちと離れ離れになります。キクマル、スズラン、カズコとポンギさんは日本軍と共に山に逃れ、4人は日本軍の炊事係として働きます。
川田文子さんの『赤瓦の家』には、ポンギさんが慰安所にいた時の証言よりも、山の中での証言が多く収録されています。「弾に当たるより空腹が辛かった」とか。それでも炊事係だったので普通の兵隊よりは役得があったのだとか。いずれにせよつらい時間でした。
3月28日には渡嘉敷島住民700人のうち300余人が集団強制死に追い込まれるという事件が起こりました。集団強制死について語りだすと語るべきことが多すぎるのですけれど、本旨からずれるのでここでは措きます。
6月30日、曽根一等兵という人が朝鮮人軍夫20人と「慰安婦」のキクマル、スズランを伴って陣地を脱出し米軍に投稿するという事件が起こりました。曽根一等兵にしてみれば信念に基づいた正しい行動だったのですけれど、この事件は山にこもった日本軍の疑心暗鬼を増幅させ、そのあと沖縄の人や朝鮮軍夫がスパイとして処刑されるという事件が起こっています。沖縄の日本軍は、住民を集団強制死に追い込んで殺し、沖縄の人や朝鮮人をスパイとして処刑したのです。先の戦争は何だったのか、誰のためのものだったのか。少なくとも軍隊は住民を守らないことははっきりしています。
8月25日になって、渡嘉敷の日本軍はやっと米軍に投降しました。軍と行動を共にしていたポンギさんとカズコは石川収容所に入れられ、その後は収容所からでて生活しなければなりません。言葉もわからず行くあてもないポンギさんの苦しみは、戦争が終わってからも続きました。
ポンギさんは生きていくために、性売買を続けるしかありませんでした。しかも彼女はひとところに生活することができず、酔客に身を任せては翌日にその店を逃げ出し他の町に行く……そんな生活を続けていました。
ポンギさんはその時の生活をこのように証言しています。ちょっと長いですけれど、『赤瓦の家』から引用します。
ポンギさんの連綿と続く絶望を、なんという言葉で言い表していいのか私にはわかりません。
風呂敷包みを頭に載せ、皇軍の地下足袋をはかずに手に持って、裸足のまま戦争の爪痕が深く残る沖縄の土地をあっちにいき、こっちにいき……。
ポンギさんはあきらかにPTSDと思われる症状を患っていました。周期的に激しい頭痛に襲われ、薬を飲んでも治らず、サロンパスを小さく切り刻んでこめかみから額、両方のまぶたまで貼って、家に閉じこもっていました。そんな数週間は誰が話しかけても返事もせず、食事もほとんどとらなかったそうです。
サロンパスを切り刻むその鋏で喉を掻き切りたいとまで語っています。
『赤瓦の家』で川田文子さんはこのような文章で、その発作の時の苦しみを表現しています。それはまるでペ・ポンギさんの人生を総括するような文章です。読み上げます。
3,たくさんのペ・ポンギさんが現在も生き、被害を受けている
ぺ・ポンギさんの人生を目の当たりにしたときに、私たちはいろいろなことを考えるでしょう。
日本による植民地支配の責任。沖縄戦に顕著にみられる、日本軍の非人道性。日本軍「慰安婦」被害者に対する、日本政府の無視に対する怒り。
2024年のいま改めて読むと、ペ・ポンギさんの人生とはとても現代的な問題と結びついているということを考えざるを得ませんでした。いまでも貧困な家庭に生まれ、ご飯も満足に食べられない子どもがいます。ネグレクトされて行き場を失った子どもがいます。「いまでも」と言いましたが、小泉の新自由主義改革以降、年収200万円台の貧困家庭が増えました。確実に行き場を失った子どもたちが増えているということです。これはポンギさんの時代の植民地支配同様、国の新自由主義政策によって意図的にもたらされました。
貧困は運命などではなく、意図的にもたらされることもあるのです。
東京の新宿などでは行き場を失った女性たちを性売買業者が狙っています。ポンギさんが言われた「黙って寝ていてもバナナが口に入る」ではありませんが、言葉巧みに女性たちをだまし、精神的金銭的に支配し、性売買から抜け出せないようにし、それで儲けを得る業者たちがいます。
そうならないように仁藤夢乃さんの一般社団法人Colaboは活動していますが、激しいバッシングを受けています。
この4月1日に女性支援新法が施行されました。正式名称「困難な問題を抱える女性支援法」は、性暴力・性犯罪被害や人身取引被害、家庭関係破綻や生活困窮などの問題を抱えている女性たちについて、その対策が売春防止法では限界があるということがあり、議員立法されました。女性たちが性売買に誘引されないように声掛け活動を行い、相談活動を行い、行き場のない女性たちに居場所や食事を提供するという活動を行ってきたColaboに対して行われたバッシングは、Colaboの活動をフォローする女性支援新法が施行される前だから行われたと私は考えています。現にColaboは行政からの支援を断ち切らざるを得ないところにまで追い込まれました。
性売買を継続して行うということの影響について、私は確信的な言葉を持ち合わせていませんが、人の心を確実にむしばむと私は考えます。セックスワーク論者はそれを「セックスワーカーが差別されているからだ」と主張しますが、私はそれが性売買そのもののに起因し、周囲の環境によるものではないと考えます。
先日『時給7000円デリヘル嬢は80万円の借金が返せない。』という本が出版されました。多くの人に手に取ってほしい本なのですが、私は作者のこの言葉に注目させられました。
自分自身が人間ではなく商品として見ていたという気付きは、相当な自己追究がないと達することができないと私は思います。けれどその気づきがなかったとしても、「人間」ではなく「商品」であることには変わりはないのだから、確実に精神をむしばみます。気づかないからこそ、精神をむしばみます。
ポンギさんのPTSDの原因が何であったかなどわかりようもないのですけれど、私はポンギさんの人生の多くの時期における性売買に起因しているものと思っています。実際に日本軍「慰安婦」被害者にせよ、性売買に携わった女性たちにせよ、精神疾患にかかわる事例には枚挙にいとまがありません。
ペ・ポンギさんは過去の人間ですか?
私は違うと思います。極めて現代に通じる、今も「生きている」被害者です。
ポンギさんは、いまの日本でも再生産され続けているのです。これは、いまの私たちの問題です。
ペ・ポンギさんは1991年10月に亡くなられました。金学順さんが名乗り出られたのが1991年8月14日。金学順さんが日本政府相手に謝罪と補償を求めて裁判を提訴したのが同年12月。その端境期にポンギさんは沖縄で亡くなられました。
『赤瓦の家』が出版されたのは1987年です。ポンギさんはそれから4年後に亡くなられているわけですが、その4年間の間に日本社会は大きな変化がありました。
1995年という戦後50年を前にして、日本の戦争責任を問う機運が高まっていました。私は1987年に大学に入学し、1991年に卒業しましたが、その変化は肌身に感じていました。
ペ・ポンギさんも、『赤瓦の家』に書かれたままのペ・ポンギさんであったかどうか、私たちにはわかりません。世に知られるきっかけは在留権の問題であったにせよ、ポンギさんは自分の境遇をどのように思っていたのでしょうか。
自分自身を被害者だと思っていたのでしょうか?
日本政府を告発したくはなかったのでしょうか?!
4月29日、「慰安婦」問題を考える会・神戸は、金賢玉(キム・ヒョノク)さんを神戸にお招きして、囲む会を開催します。
金賢玉さんは1972年の沖縄「復帰」後、朝鮮総連沖縄県本部設立を機に夫とともに沖縄に渡り、沖縄に暮らす在日朝鮮人の権利擁護に取り組んできました。その流れの中で1975年にペ・ポンギハルモニと出逢い、生活を支え、亡くなるまで寄り添い続けました。
川田文子さんの『赤瓦の家』に書かれた後のペ・ポンギさんのことを、私たちはぜひとも知りたいと思っています。
ぜひともみなさまご参加ください
[2024年4月24日 第183回神戸水曜デモアピール原稿]
ぺ・ポンギさんの写真は川田文子さん撮影
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