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【ニューヨーク物語②】

 いよいよ貿易港、商業都市として発展を続けるニューアムステルダム。日本では徳川幕府が走り出して間もなくの頃の話。
 主なマンハッタンにおける商品は当時ヨーロッパで珍重されたビーバーの毛皮だった。インディアンから物々交換で集めた大量の毛皮を欧州に送っていた。だがそれだけではない、アフリカと西インド諸島とアメリカ南部を繋ぐ、黒人奴隷貿易の拠点ともなっていたのだ。既にここにも黒人奴隷がいたとされている。
 オランダ人たちは、今のバッテリーパークの一角にアムステルダム要塞を築いたが、モグラの塚と酷評されたようで、軍事的には貧弱であったようだ。それでも先住民に対しては高圧的に接していたようで、徴税などで対立し度々激しい戦争も勃発した。敵はそれだけではなく、北から勢力を拡大させていたイギリス人も大敵となっていた。
 1647年に総督として赴任したピータースタイヴサントは元軍人で、義足ではあったが陽気な性格であった。彼はなかなか発展しないニューアムステルダムを整備するためにいろいろ法令を出した。  
残念なことに皆言うことをきかないのだ。伝統的にそんな感じであったと言うから、さすが本家ヤンキーは違う。それに加えてここは貿易港、ありとあらゆるお酒が手に入るからヤバイ。宴会の流行と宗教へのゆるさで、ユダヤ人もこれに加わりもうたいへん。いいぞ、どんどんニューヨークらしくなっていく。
 こんなことしてるからイギリスが領有権を求めてやってくる。彼らの方が早くヴァージニア辺りを植民地化していた。言わんこっちゃない、スタイヴサントの抵抗の呼びかけも虚しく、ニューネザーランド全土はあっさりイギリスの植民地になってしまう。
 1664年にイギリス国王チャールズ二世は、この領土を弟のヨーク公に与える。ここに至りニューヨークの誕生となったのだ。
 イギリス統治下おいてもいざこざは続く。貿易港として発達したニューヨークにはすでに様々な民族や宗教が入り込んでおり、宗教の対立、人種民族の対立、黒人の暴動など、港町は荒れるのだが、イギリス本国からの貿易特権もあり商業都市として繁栄していく。1699年に市の北端だった防壁がイギリス人により壊されそこにはウォールストリートができた。本当に壁があったんだ。1703年にはこことブロード通りとの角にシティホールができた。裁判所もある市役所である。ニューヨークは昔からやんちゃな街だった。
【REG's Diary  たぶれ落窪草紙    1月24日(水)】


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