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「乃木坂論壇」は生まれ得るのか?(『乃木坂46のドラマトゥルギー』読書メモ)

香月孝史さんの新著『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』読みました。


乃木坂46の舞台演劇への傾倒に着目して、アイドルが「演じる」ことの意味を解きほぐし、彼女たちが獲得した「静かな成熟」、それを可能にする社会的なコンテクストを照らし出す文化評論。


この「演じる」という切り口はこれまでの著者の様々な文章においてもキーワードになっていたもので(「上演」という言葉も出てきます)、また前著『「アイドル」の読み方』ではとかく混乱しがちな「アイドル論」のあり方についての整理を試みてきた経緯も踏まえて、非常に「香月さんらしい」本だと勝手ながら感じました。


これまで香月さんとはアイドルを巡る昨今の環境について話し合ったことがあり、僕自身もその時のやり取りにはとても感化されています。
※2016年の記事ですが、それなりに耐久性のあるものになってるんじゃないかなと



タイトルの通り乃木坂46が主題ではありますが、それを語るにあたってAKB48や欅坂46といった周辺グループももちろん引き合いに出されており、10年代のアイドルシーンを総括する本としての意義もあります。また、乃木坂46に絞っても、テレビを見ているだけではなかなか伝わらない「舞台演劇と乃木坂46」という切り口は新鮮です。


以下、気になったポイントのメモ

橋本奈々未と生駒里奈

文中では乃木坂の面々の過去インタビューでの発言がたびたび引用されていますが、橋本奈々未と生駒里奈、この2人の「自分の言葉を持っている感じ」には驚かされました。

前者は比較的年長者としてアイドルグループに入った人としての「アイドルと若さ、刹那」的な価値に対する独特の距離感を、後者はよくわからないままグループのシンボルに据えられてきた立場も踏まえての「結局アイドルって何なんだろう」ということに対する哲学を、自然体かつ何物にも揺るがなそうな雰囲気で語っています。

すでにグループからいなくなっている2人ではありますが、彼女たちがいたからこそ現在の乃木坂46というグループの基盤があるんだなというのを強く感じました。特に生駒ちゃんに関してはちょうどこの本を読んだタイミングでYouTubeでの東京ドームライブを見たので、「このグループは生駒卒業前/後で別物になっているなあ」という思いを強くしました。

(橋本さんのラストシングル「サヨナラの意味」名曲ですね)

(生駒ちゃんラストシングルの「シンクロニシティ」、このMVの肝は2番Aメロのハイパー生駒タイム)


アイドルを巡る固定観念

「アイドルとは程度の低いもの」という強固な価値判断、それが存在するからこそ「アイドル/アーティスト」といった線引きや「アイドルを超えた」的な言説が跋扈する--という話はいわゆる「アイドル戦国時代」の頃から(もっといえばPerfumeが出てきた頃から)固定化されてしまっています。

この本でも紹介されているJAPAN誌の平手友梨奈評を見ても、「アイドルにそこまで造詣の深くない、でも周辺文化においては権威のある人たちによるアイドル評」は驚くほど進歩していないことがわかります。この辺は2014年に出た『「アイドル」の読み方』でも同種の話が出てきていたわけで、香月さんにとっても忸怩たる思いがあるのではないでしょうか?

僕自身、「アイドルからアーティストになる」とか、ちょっと従来のロック文脈で盛り上げられそうなアイドルグループに対する「アイドルを超えた」とか、そういうものといかに距離をとりつつ違う言葉を紡げないか考えてきたつもりではあるので、いまだこの辺の指摘が「いまさら」ではなく機能してしまう状況はほんとにきついです。


この本では「演じる」というキーワードを介することで、【自作ではない表現を演じる演者が作者の操り人形かというとそうではない】【SNSを通じてオンとオフがあやふやな状態でファンにさらされる現代のアイドルは、常に「どう演じるか/演じないか」という観点でのセルフプロデュースが必須である】という形で「アイドル」に対する通り一遍の偏見と改めて対峙していきます。(注:【】内は本の引用ではなくてわたしが解釈したまとめです)

こういった論の存在意義は、「かつてアイドルだった人たち」が飛躍的に増えていく未来の日本において、さらに高まっていくはずです。


結局、「なぜ」乃木坂だったのか?

この本では乃木坂46の活動に「演じる」というフィルターをかけることで現代のアイドルシーンの構造を炙り出すこと、またそういった視点で見たときに乃木坂46がシーンにおいて何を成し遂げてきたのかがまとまっています。

一方で本書では、「乃木坂46がなぜここまで巨大な存在になったのか?」、もっといえば「なぜ乃木坂46はAKB48と入れ替わるように時代のトップランナーになったのか?」ということに関する言及を巧妙に避けています。

もちろんこの本の主題はそこにありませんし、また最終章ではそこには必要以上に立ち入らないというスタンスも明示されています(この辺の知的誠実さ、もしくは慎重さ含めて前述のとおり”「香月さんらしい」本”だと思いました)。

そこまで理解したうえでではありますが、「演じる」という視点を通じて見えてくる乃木坂46の独自性がここまで世の中とシンクロしたのはなぜだったのか?に対する仮説はもっと聞きたかったなというのが正直なところではあります。

それは単純に自分自身の興味関心という部分(基本的に「売れているもの」の裏側には「世の中の空気とのリンク」があると信じているタチなので)が大きいですが、それに加えて、明確には答えのないその問いに踏み出さないと「乃木坂46が成し遂げたこと」の価値が曖昧にしか定義できないのでは?と感じたからです。

言い換えると、「AKB48は何か物量作戦で売れたけど、秋元康がそれに飽きて乃木坂46に力入れたらよくわからんけどそっちが売れたよね。まあどっちも俺には関係ないけど」という感じの乱暴だけどともすれば「世間」に支持されがちな論に、この本でなされていた丁寧な議論が飲み込まれかねないんじゃないかなと。

本の中でも武田砂鉄さんの乃木坂46に関する雑な対談論考(あの方は大半の文章は面白いのに秋元康関連になると途端に話が「紋切型」になります)が議論の展開の中で取り上げられていましたが、そういったものではなくて、「AKB48的な世界観へのコミットを避けようとしてきたグループ」がここまでの存在になったパラダイムシフトを社会の中でどう捉えるべきか。多少議論がジャンプする側面があったとしても、そんな踏み込みがあったら読後感がよりぐさっときたなあと思いました。

本の中でも触れられていましたが、10年代前半から半ばにかけて「AKB論壇」とも言うべき空間が形成される中で、「AKBとはこういうものだ」という話が良くも悪くも流布されました。そして、アイドルシーンにそこまで関与のない大多数の人たちにとって、乃木坂46もその延長線上で捉えられているのが実態のように思います(欅坂46、というか平手友梨奈がそのカウンターで捉えられていて、でもそれはめちゃくちゃ旧文脈な「ロック・反体制」語りの範疇であるというのは前述のとおり)。この状況を打破する言葉が生まれることで、初めて乃木坂46は「AKBの従属物ではなくなる」、つまり本書でもたびたび言及されてきた「AKB48の公式ライバルという通り名が不要になる」という状態が完遂されるのかもしれません。
(※とはいえ、じゃあ「乃木坂論壇」が2020年代に改めて形成されるかというとそんな感じもしないですし、香月さんの言う「明快で強力なコンセプトを作品に宿しているとか、具体性の強い主張やメッセージを発しているとかとは違って、「ごく自然な成熟」は固有の特性として取り出してみせるのが難しい」という点(以下の記事より引用)、そういった「語りづらさ」も含めて乃木坂46であるというのも理解はできます)



というわけで、グループのファン、および2010年代のアイドルカルチャーに興味のある人、どちらにとっても気づきのある本だと思いますので、在宅のお供にぜひどうぞ。香月さんこの辺また話しましょう!

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