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とあるリハビリテーション科専攻医が専門医になるまで

リハ医のキャリアパスが分からないという話をよく聞く。
自分も学生や研修医の頃にネットの中でリハ医の生態を探していた。
あの頃も情報はほとんどなかったが、今でも状況は変わらない。

誰の参考になるかは分からないが、ここまでどういう道だったかは振り返ってみる。
個人情報満載なので後半は有料記事にした。



1年目(駆け出し)

幸運!?にも、自分の母校にはリハ医学の講座があった。
特に迷うこともなく、自分の出身校の医局に入った。規模としては大学病院に勤める医局員は10数名おり、レジデントは自分と転科組2名の合わせて3名だけだった。後になって知ったのは新卒入局は10年ぶり。しかも、複数人が同時に入るのも久しぶりだったようで、上層部が「今年は賑やかだね」と喜ぶ。

 回復期リハ病棟の勤務が始まる。上司1人と自分の2人班体制でそれぞれ多くの担当患者を持つ。多いときでそれぞれ20名を超える担当患者がおり、気まぐれで週一回回診がある感じで回していた。年間で約100人の担当を受け持つ。脳卒中や骨折がほとんど。稀に脊髄疾患や切断も担当した。
忙しかったものの夜遅くまで働くことはせずどんなに遅くとも19時くらいには帰っていた。当時は医局・病棟の飲み会もたくさんあった。

 装具が好きなので、週一回の装具診察は楽しみだった。ここで義肢装具士さんに色々と教えていただいたのは懐かしい。脳卒中の下肢装具・義足だけでなく、小児の体幹装具や下肢装具、バギーなどもこの当時に習ったことが生きている。

 若いというのでよく当直にも入れられていた。3日連続で外勤当直に出向いたりしていた。あの時はまだ若かった。ここからずっと当直地獄が待っているとはこの時は知るよしもなかった。

 給料は大学病院からの180万(年間)+外勤といったもので、研修医の時よりかは増えたものの全くだった。そういうのもあって、喜んで外勤当直を引き受けていた。

 当時は地区での若手リハ医の飲み会があった。数大学が集まって、年2回くらい?飲み会をしていた。そこでよく議論を吹っ掛けていた。今、あの時の自分と同じようなレジデントがいたら、手が出てると思う。みんな、優しくて良かったね。

国際学会で行ったニューオリンズの夕焼け
国際学会で泊まったホテル


ニューオリンズで食べたガンボスープ


2年目(停滞)

勧誘の効果もあり、前年同様複数人が入局した。
 今までは個々で働いていた医局の人々も少しずつ「新しい人も入ったし、チームで動くか」という兆しが見える。この時が一番管理職・中堅・若手のバランスが良かった気もする。

 仕事自体は前年と変わらず、常時15-20名程度の担当患者を受け持ち、装具外来や嚥下機能検査を週1回行う。

 しかし、ここで大きなトラブルが起こる。

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