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絶望は音楽にならない

昔から暗い曲はたくさんあります。
全部あげるとキリはないですが、有名なところを挙げれば、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番ハ短調「悲愴」、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」、マーラーの交響曲「大地の歌」や交響曲第9番ニ長調などでしょうか。あるいはショスターコーヴィチやペッターションに至っては楽曲のほぼ全てが絶望的な音楽とも言えそうですが。

しかしそれらも、私の中ではこういう感覚があります。「絶望感を表すのに音楽は向いているが、音楽に一度してしまった時点でそれはただの音に過ぎない」と。

絶望感を音楽で表すなら、短調の和音や不協和音を用いるのがセオリーですが、それは技術面の話です。本当の絶望感は、もしそれが音楽なら、無音それ自体によってしか表せないんです。

私はいろんな人の詩に曲をつけさせてもらいましたが、実は自分の詩にはほぼつけていません(一曲だけすごく昔に作りましたが、それだって他の詩人の詩を真似して書いた詩につけた曲です)。

私の詩のテーマは基本的に「絶望」です。それは、中身はだいぶ変わったけれど、ずっと昔からそうなんです。だから、私は自分の詩には曲は書けません。音楽として表現したものでは、(その頃はまだ本当の絶望ではなかったけれど)自作の交響曲第3番が絶望感には一番近いにと思います(第4番もそれを目指しましたが、駄作に終わりました)が、それだって、私の曲にしてはよくできているんです。多分私の最高傑作になるんだろうと自分では思っていますが、書いてしまったものはそれ以上の価値はないんです。書いてしまった以上、それは陳腐な音の連続に過ぎず、そこに絶望感なんて、私がどれだけ感情を込めようと反映させられないんです。

あとは、演奏家の力量かもしれませんね。演奏家がいなければら、音楽に魂はありませんから。

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