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音楽の純粋性?についての考察

前置きですが「ノート」というのが、X(旧Twitter)で書くよりも十分に長く、思ったことを書く長さとしてちょうど良さそうだと思うこの頃です。

ここでの考察は、芸術における純粋さについての考察です。文学は書いた時点で内容が具現化されてしまいますし、絵画も描いた時点で対象が形を有すると言う意味で具現化してしまいます。しかし音楽には(鳥のさえずりの模倣とか、鐘の音の模倣とか、そういうものを除けば)そもそも具体性などなく、音楽は常に抽象的なのです。そこで、ロマン派の時代、詩人たちは音楽を崇拝し、マラルメの純粋詩の構想にまで至りましたし、また絵画においても写真の発明で模写に意味がなくなると印象派が現れたりしています。
(ただ、純粋詩の例文って、探しても全然出てこないんですよね…)

私は昔は実は詩も書いていましたし、一部はまだ保存してあるのですが、その観点で行くと私の詩も、極限までの抽象化を目指していたように思います。なるべく少ない言葉を用いて、言葉はなるべく曖昧な意味の語を用い、かつそれが意味される内容もできるだけ曖昧にして、もはや意味自体が全く成り立たなくならないように文法が崩れてしまう限界を目指す…。ただ、実際それを書いてみると思った通りにいかないことが多く、難しいのです

自作で、まあまだ公開に耐えられそうなのを挙げてみると…。

『子守唄』


限りなく青い空が

あなたを包み込むように


紅く染まる時に

木々は憂いの風を吹かせ

星は孤独の詩を奏でる


あなたの優しい詩を


いつの日か聞いた

優しい子守歌を


叶わなかった


約束を

2007/6/17

『往来』


窓から見える

ばらばらな幾何学


昨日も今日も

知らない空から

冷たい雨が流れる


こんなに広い世界で

わたしの家はどこ


モノクロな空の下で

乾ききった多彩な光が

崩れた時間の軸の中を

行き来する


古い残像が

いつまでも傍らで

そっと笑いかける


あなたの知らない

異国まで

2011/2/11

『染蝕』


血の雨が 空から落ちる

けれど誰も 気づかない

見上げた瞳に 鈍く染みて

私の世界も 朱くなり

私も色を 失った


 ねぇ、あの赤い血は

 誰が流したの?


どこかで子供が

叫んでる

2013/1/27

この辺りの作品を英語のサイトで訳して公開したところ、「文法が破綻している」「英語の勉強をやり直せ」と辛辣なコメントを多数いただいたことも覚えていますが、ネイティブの英語話者ではない私にはやはりどこまでが文法として成立できるかの線引きがわからないのです。

この辺りは音楽に専念している今も似ていて、私にとっては、詩における「文法の成立」が、音楽における「調性の成立」だと思っています。調性とは、ハ長調とかヘ長調とかト短調とか、そういうもののことで、普通の音楽には絶対に必要な概念なのですが、これが完全に崩れてしまうと音はノイズになってしまいます。20世紀の音楽は無調でありつつも、それが雑音にならない限界を目指していた側面は強いです。

(ところで、私は、という話になりますが、詩はなるべく抽象的に書きたいという話をしました。その方が美しいと思うからなのですが、言い方を変えれば、具体的な内容の詩を避けるのはそれだけ通俗性を有してしまうからとも言えます。だから、ほとんど全ての音楽は抽象的なものではあるのですが、音楽の場合は通俗的なものか否かが重要な部分となります。が、「通俗性」とは何なのか、自分で考えてもよくわかりません。ただ、ポップスに無数によくあるバラードみたいな曲は、自分で書いていて、あまり価値があるように思えないです。)

拙作ながら自作では「メランコリー2」がこの意味で実は一番気に入っているし表現に成功した作品だと思っています。無調の曲ですが、私の曲の場合、「無調」は単に調整が多すぎてどれと特定できないことを今するので、調整がないわけではないです。この曲は調性感のなくなる限界を目指したような曲というわけです。(あまりにもとっつきにくい曲だからなのか、ほとんど誰にも聞いてすらもらえていませんが…)

何だか言いたいことがまとまらないのですが、言いたかったのは、頭の中で抽象的に作ってみたつもりでも書き出すとあまりそのようになっておらず、本当に表現したかったものとかけ離れてしまうことが多いなと感じることが多いです。

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