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読んだ本の紹介:「ラディカル・オーラル・ヒストリー」



カントリー(アボリジニの世界ではオーストラリアのことをカントリーと呼

ぶ)にかつてケネディ大統領がやってきて、アボリジニと約束をした。かつ

て、キャプテン・クックがカントリーの北までやってきて殺戮のかぎりを尽

くした。

上記二つの「歴史」は実証されていない。が、アボリジニにとっては真実の

歴史となっている。このことを聞いて、精霊やドリーミング、神話・伝説を

根底にしたアボリジニの世界は空想の世界だと、我々は感じてしまう。この

ことの反証として、僕の好きな小泉八雲や能の”おばけ”の話を持ってく

る、、訳では今回は、ない。この本は「見ること」と「聞くこと」にラディ

カルに迫った、良書である。

著者は「歴史する」と言っているが、普段我々が事実だと認識している歴史

は「書かれた」歴史である。西洋的な歴史は”資料”に基づく。この為、資料

の正統性をめぐってヒエラルキーが生まれてしまう。対して、オーラルヒス

トリーは「口頭」の歴史である。これは、誰かがいった話を「聞いてきた」

歴史なのだ。口から口へと伝えること、口承の歴史である。このことまで

は、まあ、そうだよね、な話だ。この本がラディカルなのは「受け手」に着

目した歴史に着目していることだ。アボリジニの歴史とは、口から口へ、こ

とばからことばを”聞いてきた”もの達の歴史なのだ。「ことばへ耳をそばだ

てて」きたもの達の歴史である。長老達の語る神話や歴史の話を聞く。聞く

ことは、その都度、その場限りの出来事である。その話が資料的に真実なの

か、それはその時にはわからない。だが、そう考えれば、普段我々は、例え

ば、口うるさい老人や訳のわからない主張をする同僚の話を”資料的に”正統

性がない、”有益でない”といった判断を元にして、雑に聞き逃している事に

気づく。もしかしたら、本当は話している内容よりも重要なこと、例えば

「寂しいからなんでも話を来てほしい」や「あなたのことを愛している」を

伝えたいのかもしれないのにだ。そうして、そういった痛切な思いは大抵、

その場、その瞬間に扱わなければ大きなシコリとなって残ってしまう。この

ことは、なぜ、先住民と呼ばれる人たちが一般的に平和的なのかの理由を提

供してくれる。彼らは、話を真摯に、正しいか、真実か、価値があるかの判

断を一旦は退けて、まずは「耳をそばだてて」いるのだ。そういった、聞く

ことの連綿としたつながりの中で重要だと伝えられてきた神話や歴史は、科

学的な歴史、歴史学の中では事に「実証主義的史学」といった西洋のアカデ

ミックな歴史とは全く違う代物だということがわかる。そうしてまた、この

歴史学から我々の日常を顧みれば「見ること」の価値判断に大きく影響され

ていることがわかる。わたしたちは「見ること」によって得られた知識、書

かれた文字を見て、それを覚えている能力によって、Youtubeを見て、流行

っていることかっこいいことの価値判断を下している。私たちは、目の前に

いる同僚を、youtubeのエンタメ動画のようには面白くないからと価値判断

をして、スワイプしてはいないだろうか?概して我々は「見ることの地獄」

に捉えられた時代に生きている。このことから、さらに転じて「見せる」こ

と、「見世物」としてのSNSの時代に突入している(スペクタクルの社会:

ギー・ドゥボール)。さらにまた、「文字を見ること」に焦点を絞れば、か

つてイリイチが今は一般的になっている文字を読む作法”黙読”が特殊技術で

あり、どちらかと言えば教父たちの専売特許だったことを論じている。いわ

ゆるグーテンベルクの活版印刷の革命により、音読文化から黙読文化へと世

界は移行したのだった。黙読が一般的ではなかった頃は、黙読は一人でコソ

コソと怪しげな考え事をしているとみなされて、不道徳という社会的な位置

づけでもあったとイリイチは述べている。このことは、教父たちの権力維持

の装置(当時の教父たちは、聖書の教えを教会で信者たちへ講釈するという

儀式を通して権威を保持していた)としての権威を保障する為に不道徳だと

したのかもしれない。そして、再度「見ること」へと戻れば、見るという行

為はある区画を策定し、限定された”見るべき”範囲を見るー正統性のある”資

料”を見る・面白いYoutubeを見る(つまらなければ、飛ばす)ーという”操

作的”な作用を保持している。

※「見ること」に関して、カスタネダのドンファンは,seeとlook atを区別している。seeは簡潔に述べれば、実際の世界をありのままに見る。look atは選択的に見るべきものを凝視する。である。この本の紹介で使っている「見ること」は厳密にはlook at(凝視する)のことである。

すなわち、見ること→見るべきものを策定すること→それらを「所有するこ

と」へと繋がっているのではないかと思うのだ。我々が、スマホに執着する

のも「見ること」をポケットに所有したいという動機があるのではないか?

イリイチの言うコンヴィヴィアルな世界へ移行できず、消費主義から決別で

きない我々の執着の根本は「見ること」にあるのかもしれないとすら思うの

だ。さらにまた、「見ることは」、「見られるべき」ことへと我々を操作す

る。見られるべき文書を書くこと、読むに値する論文を書くこと、収益の上

がるビジネスレポートを書くこと、すなわちコンテンツ花形の時代でもあ

る。話すことに含まれる、身体性・リズム・その場の環境の影響(誰に話す

か、どこで話すか)などなどの要素はいつの間にかこぼれ落ち、コンテンツ

という結果のみが重要とされる時代となっている。うつ病が多いと言われる

現代は、個人の心の内容が問題視され、それを治療や薬によって操作しよう

とする。我々は、見ることを通じて、アガンベンの言う「内面の犠牲者」へ

となってしまっているのではないだろうか?

「ラディカル・オーラル・ヒストリー」はかように、さまざまな洞察を運ん

でくれる良書です。保苅実、32歳の若さで夭逝。彼の続きの研究を「見れ

ない」ことを悔やむよりも、彼が残した言葉から連鎖していこうと思う。

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