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エッセイ:ツバメが閃光する

海岸線をドライブしていると、車のスピードに合わせて、鳥が並走する瞬間

がある。

先日もいつものようにドライブをしていると、ツバメが飛んできて車と並走

する瞬間がありました。

ツバメと同じスピード、同調しているような感覚から、ツバメの飛んでいる

世界へ入っていくような感覚、自分自身もツバメになったような感覚を味わ

った瞬間でした。

そのことから、触発されたことをエッセに書いてみようと思います。

人間であることの枠組みとは何か?

人間中心的な思考とは全く別の世界があることを、どうやって認識するか?

多分、そのようなことを、その時は考えていたと思います。

ユクスキュル著:「生物から見た世界」は、人間ではない生物の世界が確か

にあることを示しそれ環世界と呼んだ。

そして、動物性と人間性の”あいだ”に踏み込んだ、アガンベン著「開かれ」

なんかが引っかかった感じだったのでした。

最終的には小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)や能の世阿弥、ルネ・デュポ

スの「場所の霊性」といったテーマでまとまりました。

人間であること、の思考の限界について考えてみる。

環世界という世界が確かに存在しているということ。

ツバメの世界があること、そのことを、まま認める世界があるとすれば、わ

たくしたちにはどういった世界に劈(ひら)かれていくのだろうか?

ニューエイジという文脈で一躍脚光を浴びたカスタネダならツバメを精霊と

呼ぶかもしれない。

ラフカディオ・ハーンは、そのエッセイの中で、日本の霊となり、人外の姿

で世の流れをあらわしている。

私の主張は単純だ、誰もが身の回りにある、不可思議な出来事、不気味な存

在、弱々しくて今にも消えそうな存在、知覚し得ないもの、理解不能なも

の、それらを、それとして認めることである。

それらが可能な世界とはどのような世界だろうか?

知覚し得ない物の可能性を否定しないという意味では、趨勢力とも言える。

合理的な思考では、ツバメになるということは不可能なのだが、忍び寄るこ

とは不可能ではない。

自己からかけ離れた存在へ、その存在その物へ近づくこと。それでいて、そ

れそのものには決してなれはしないが、忍び寄ることで、本当のところ、人

は”人間”になれるのではないだろうか?

まったき、経済的人間という役割ではなく。

あるいは、法による統治の外へ向かうものとして。

これに対して、ベンヤミンは法の彼方へ向かおうとしその名を「神的暴力」

としたのだが、これらの心象を実装するにあたって、システムや制度として

これを構築していくという作業は不可能なことに思われる。

結局のところ、なんであれかまわない存在として生きていくには

「自分でできることをしなければなりません。」という宮澤賢治のデクノボ

ーの精神にようなものになるのではないだろうか?

問いは、こうである。
①ツバメと一緒に飛ぶことは出来るだろうか?
②庭を徘徊する野良猫の知恵を学ぶことはできるだろうか?
③海岸線をドライブしている時の刹那、目に飛び込んでくる、海と水平線と太陽の美しさに驚愕し身体の奥底から湧き上がってくる喜びに一切を賭けられるだろうか?

こう言った問いは、今日の仕事のノルマや働くことに比べたら、馬鹿馬鹿し

い問いでデクノボーのよう叫びのようでもある。

だがしかし、私の主張はデクノボーであることの肯定でも否定でもない。

どちらかといえば、アガンベンのいう人と動物との境目にある「宙吊りの宙

吊り」といった世界をどう捉えていくのか?ということだ。

まずもって、前提としてあるのは、デクノボーの基準を判定しているのは誰

なのか?

ということと、その先にはデクノボーであることの肯定・否定でもなく、

「ズラし」の視点である。

【デクノボー・天使・白痴】

デクノボーは無能である。そうであればこそ、それは天使でもあるし、西洋

の基準を嫌うならば親鸞が最後に行き着いた白痴のようなものでもある。

人間中心的な基準からすれば、その正体は自ずと明らかになる。仕事での有

能性からの基準からすればデクノボーは不要である。

だが、職場でよくわからない言動を繰り返す同僚に困惑しながらも、どこ

か、自身の身体の一部分わずかではあるものの、それは否定したくなる程の

微かな囁きだが、そういった無能なもの達を、自分も必要としているし、畏

怖の目で見ている自分に気づきはしないだろうか?

そして、本当は誰もが、ある部分は全く無能だし、全然使い物にならない瞬

間があることを知っているはずだ。

とみに、大きなスケールで見れば、この夏の異常な暑さと、猛烈な雨が、こ

れまで人間中心的な考え方でやってきたツケがこの環境災害を招いていると

感じ、そのことにどうすることもできない自分の無能さを感じたのではない

だろうか?

「ありえないことが現実になる時」はもはや、あり得ることとなった。

そうであればこそ、人間中心的な見方からの’ずらし’が求められているのでは

ないだろうか?

休みの日に、ドライブをしている最中、ツバメと一緒に飛ぶことはどんな気

分なのだろうか?

そう問うて挑戦してみること。

あなたの庭や近所を徘徊している野良猫に、生きる知恵を尋ねてみたり、借

りてみたりすること。

海岸線の海の風景に驚愕して、心の底から喜ぶこと。

特に、新しい提案をしているというわけではない。

ツバメになったり、一緒に飛んだりするや方法は、カスタネダの著書、ドン

ファンが言っていることだし、風景や火山などの無機物にさまざまな言葉を

聞き取ったのは宮澤賢治である。

人間中心的なものを、否定しようというものではない。

猫に知恵を乞うたから問いって、毎月の請求書の支払いはやってくる。

むしろ、ある種の理論の策にハマらないようにしようという、ずらしの戦略

である。

大きな視点で見れば、宗教戦争から国家戦争へ変貌し、主権国家による戦争

システムという成り立ちを理解すれば、他でもない、この今現在のやり方に

疑問がない方が、馬鹿げているのではないだろうか?

だがそのことは、実は私たちが、無意識にも資本主義やら社会制度といった

システムをなどを大袈裟に受け取っているからでもないだろうか?

高層ビルの巨大さや、富裕層の所有している資本が巨大だとしても、存在論

的にはちっぽけだとしたら、どうだろうか?

あるいは、こう言い換えてもいい。わたしたちは、メディアやSNSに惑わさ

れて、華やかな世界や豪華な商品などを凝視、(look at)しすぎている。そし

て、自分達の傍にある些細だが世界が閃光する瞬間を見る身振り、(see a

flash)がわからなくなってしまっている。

何かを選択的に見ることは、常に操作されている可能性がある。

実際に世界を見るためには、操作の枠からのズレた場所・時間を瞬時に捉え

る技と身振りが要請される。

日常の世界にある、ノイズや閃光なようなもの、あるいはもやもやした不穏

な感じを捉えることは難しいことだろうか?

ツバメがあなたの世界に唐突に侵入してくる刹那をとらえ、もう一つの世界

を生きることは世界が並行世界であることを認めることだ。

この辺りのことは、カスタネダの著書に詳しい。

そしてまた、日本には能があり、世阿弥の夢玄能の世界がある。死者の霊と

ともに生きてきた世界観はわたくしたちにとって、ちょっと昔には身近なこ

とだったと思われる。

教科書的に、公と私を線引きすることは、「合意された現実」の上をただ

していだけなのではないかと思う。

日本中世期にあった、無縁・公界・楽、などというテリトリーも場所的な区

分けと時間的な流れが混淆的な日本人の世界観の表れだったと思われる。

小泉八雲のいう、日本の面影は、あわい(淡い)、さかい(境)の中にあっ

たのである。

小泉八雲は日本の何げない「道」をの美しさを愛して描写してきたが、それ

はデュポスの言う「場所の霊性」を豊穣に日本人が持っていたからでもある

と思う。

そういうことで大好きな道や都市の街路、海岸沿いの路へ、閃光される瞬間

劈(ひら)かれに、今日も海岸線を走ろうと思う。


【参考書籍】

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)ー「心」:日本人論といえば昔から、海外の目が要請された。八雲については、日本に来る前に世界を遍歴してきたその経歴が「心」「怪談」をはじめとする刮目すべき洞察を生んだ。


ルハン・マトゥス「平行的な知覚に忍び寄る技術」
ニューエイジの文脈。アメリカではウッドストック。ヒッピー文化華やかな頃。日本では、学生紛争が苛烈だった時代。カスタネダシリーズは一躍脚光を浴びた。シャーマンやら呪術師、そしてその系譜から欧米では日本の禅ブームなど、文明拒否の身振りが形成された。そのブームの衰退、敗北から忘れさられた「神秘的なるもの」をこれからどう乗りこなしてゆくのか?浮き足立たないで考えて行きたい。

ジャン・ピエール・デュピュイ「ありえないことが現実になるとき」
東北大震災のおり、同じ著者の著作「ツナミの小形而上学」を読んで、上記を読んだ。
福島原発が水蒸気爆発を起こした当時、福島の友人たちと同書を背筋を凍らせて読んだ。
最悪の可能性はなぜ見過ごされるのか?一文だけ、引用しておく。

 リスク問題をもっぱら経済思想が独占しているという状況ーたとえば、経済思想が好む「コスト・ベネフィット」のバランスシートーに反対するもう一つの理由は、経済学が当の問題に関して利害関係にあるにもかかわらず、それを裁く立場にあるからである。

ありえないことが現実になるとき


世阿弥「風姿花伝」
斎藤孝氏は同書を個人の上達論として。Youtuber中田敦彦は同書を特に、笑いの上達方法として紹介している。僕は、この芸能の民が将軍足利義満の寵愛ーつまりは男色ーを受け、差別の対象であった芸能民として大成する過程で、決して権力と寵愛に溺れず、芸を大成したところを読んだ。負けながらも勝つという方法を考え始めた時の事だ。有無を言わさぬ卓越した芸が世阿弥のそれである。

竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」
ひらかれる、が難しい漢字です。当時、20年前ほど前辞書を引いて調べました。人生を変えた一冊でもあります。この本は、著書本人が耳を患ったことから、苦労をして”からだ”と”ことば”を回復、取り戻して行った過程が書かれている。誰もが現実世界に挑まなくてはならないとき「レッスン」という形で鍛えることも「あり」なのだと教えてもらった本です。

宮澤賢治「気のいい火山弾」
火山弾のことばを引用する

「みなさん。ながながお世話でした。苔さん。さよなら。さっきの歌を、あとで一ぺんでも、うたって下さい。私の行くところは、ここのように明るい楽しいところではありません。けれども、私共は、みんな、自分でできることをしなければなりません。さよなら。みなさん。」

気のいい火山弾 宮澤賢治

ここで馬鹿にされ続けてきた、火山弾の最後の言葉に九鬼周造「いき」の構造を感じる。

ヴァルター ベンヤミン「暴力批判論」
実定法と措定法、それらが暴力に担保されているとき、正義は虚構となる。ベンヤミンの思考に近づくにはそれなりの蓄えがないと難しいですが、それだけに驚愕する「スゴ本」です。でも今でも難解。


吉本隆明「最後の親鸞」
戦後最大の思想家、吉本隆明はここでは置いておいて。空海の真言密教後、法然・親鸞を頂点として、日本の霊性は彼らを超えたものは出てきていない。と思っている。本書は、戦後最大の思想家が日本最大の宗教家に挑んだ本だ。親鸞といえば自力・他力で有名だが、ことばの不完全さを即座に別の言葉に変換することによって、思想の溜まり場にいたろうとした。あとは、修行なんかしても悟りは得られないよと、アウトローみたいなことを言っている。流罪になったことが慧眼の始まりであった。親鸞については、レンマ学を絡めて別の論考で挑戦したいと思います。一つだけ、引用を

 「親鸞は黙想や観想を認めていない。…残されているのは、言葉の概念を次々に拡げ、連鎖させて、それがひとりでに寄り集まって湛えられる場所を、思想として探し当てることであった。」(p.33)

最後の親鸞 吉本隆明

言葉はもともと不完全ですから、どんどん連鎖する言葉を繋げて、思想の溜まり場に至る。が、それは中断であって、中止ではない。ということは、我々は不完全な道具を使って、日々思考をしているということになる。それゆえまた、知の殿堂といった固定化された知性もない、ということになる。日本の面影は流動的なことばの連鎖にあるのである。


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