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第十八話 彼女と、レモン色の夏の雪

【前回までのあらすじ】

海辺の夏祭りで、ぼく(16歳)は市川満里奈さん(18歳)と出会った。千鶴さんや一号機、二号機、三号機とは違って、清純無垢な優等生ふうの女の子で、たちまちぼくは恋をしてしまった。
翌日、ぼくはY町の商店街に出かけて、埃臭い本屋の中で、満里奈さんとばったり再会。さらに、満里奈さんから「かき氷を食べにいこう」と誘われたのだ。


 時間が止まったような本屋を出ると、外にはぼくの自転車の隣に空色の自転車が置かれていた。日頃から手入れされていると思えるピカピカの自転車で、前カゴはお洒落な籐編みのバスケットになっていた。
「これが満里奈さんの自転車?」「ええ」
 満里奈さんは自転車にちゃんと鍵をかけていた。前輪に鍵がついているタイプだ。満里奈さんは鍵穴に鍵を差し込もうと、両脚をきっちり揃えてしゃがみこむ。なにげない一連の動作にも育ちの良さがうかがえて、ぼくは気づくと満里奈さんを見つめてばかりだ。
「ん? どうしたの?」満里奈さんが不思議そうに首をかしげてきた。
「あ、いえ……」ぼくはハッとなって自分の自転車を取りだした。
 そろそろ夕餉の買い出しの時間のようで、商店街には先ほどよりも主婦っぽい中年女性が増えていた。
「じゃあ、私についてきてね」
 少しだけ陽が傾いて、陽射しも柔らかくなった商店街に満里奈さんの弾んだ声が響いた。とはいえ、商店街では二人とも自転車にまたがらず、手で押した。
 商店街の出口までやってきたところで、満里奈さんが振り返ってきて「こっちです」と長い黒髪をなびかせた。ぼくはまたボーッと見つめてしまっていた。
 満里奈さんはまずは左足をペダルの乗せると、右足で地面を蹴り始めた。いわゆるけんけん乗りで助走をつけてから、女乗りで、右足をサドルとハンドルのあいだに通した。その女の子っぽい後ろ姿を見ながら、ぼくもペダルを踏み込んだ。
 商店街を抜けると、すぐに海岸通りへ出た。入道雲はなくなっていて、スライスされたような薄い雲が浮かんでいた。海岸通りの右側は十隻ほどの漁船が停船している漁港となっていた。その奥には日本海が広がっていた。沖合で海鳥が飛び交っていた。しばらく進むと、昨日、下車したバス停もあった。
 ぼくは二メートルほどの間隔を取って、満里奈さんのあとをついていった。満里奈さんはゆうゆうとゆっくりとペダルを漕いでいた。ちょこんとサドルにのっかかった小ぶりな双臀は、白いワンピースに包まれて、白桃のように見えた。
 一瞬、頭の中でいやらしい妄想が膨らんだけど、ぼくはぶんぶんと首を振って、すぐにかき消した。
 足元がふわふわして、ペダルを漕いでいる感覚も薄かった。いまだ現実感も沸いてこない。昨日会ったばかりの女の子と偶然にもばったり会って、かき氷を食べにいくことになったのだ。デートと呼んでいいのかわからないけど、こうやって女の子と二人でどこかに向かうのは初めてのことだ。おかしなものだ。勇吉のおかげで、すでに三人の大人の女性とセックスまでしているのに、普通に女の子とデートを一度もしたことがないなんて。
 目的の喫茶店は、海岸通りに面していた。ほったて小屋のような建物で、「氷」ののぼり旗がはためいていた。入り口の上には裸電球がぶらさがり、軒下にはパイプ椅子が四つ、「ドライアイス」と書かれた保冷庫も外に出されていた。保冷庫の傍に黄色のビールケースが無造作に転がっていた。店舗とセットのように、傍には大きなむくの木が立っていた。
 喫茶店というより、駄菓子屋といったところだ。お嬢様っぽい満里奈さんがこんなところに来るのだと少々、虚を突かれた。
「ここです」店の前で自転車を停めて、満里奈さんはあとからついてきたぼくに振り返ってきた。ゆっくりと自転車を漕いでいたけど、彼女の首筋がほんのりと汗ばんでいた。あたり前だけど、彼女も暑いと汗をかく生身の人間なのだと思った。
 かき氷屋の店内は六畳ほどの広さで、木のカウンターと客用のテーブルが一つ、パイプ椅子が三つあった。カウンターのなかに六十過ぎぐらいのおじさんのようなパンチパーマのおばさんがいた。満里奈さんを見て、「あら、いらっしゃい」と嬉しそうに声をかけたが、見慣れないぼくが入ってくるなり、わかりやすいほど、警戒するような視線を向けてきた。
「こんにちは。おばちゃん。こちらは苫田潤さん。普段は京都市内に住んでいらっしゃって、おばあちゃんの家がこっちにあるから、夏休み中、遊びに来ていらっしゃるの」
 おばちゃんの視線など気にせず、満里奈さんはすらすらとぼくを紹介した。ぼくはおばちゃんと目を合わさず、軽く会釈だけした。
 年季の入ったこぢんまりとしたカウンターのうえには、バカでかいかき氷器が置かれていた。業務用なのだろう。幼児用の椅子のようなかたちをしており、車ぐらい大きいハンドルがくっついていた。かき氷器の隣には、十二色のクレヨンのように色とりどりのシロップが並べられていた。チューブタイプのチョコレートもあった。カウンターの奥の棚には、かき氷用の底の浅いガラスが積まれ、それは外から差し込む夏の斜光で美しく輝いていた。
 壁には手書きのメニューが張られていた。かき氷は一〇〇円で、アイスコーヒーやオレンジジュース、リンゴジュースは一二〇円、カルピスとメロンソーダーは一五〇円だった。メニューの横にかけられた時計は、ちょうど十五時半になろうとしていた。
「潤さんは、なににしますか?」
 ふわっと二の腕がくっつくほどの距離まで満里奈さんが詰めてきた。
「え、えっと。じゃあ……レモンにしようかな」
「レモンね。私はイチゴにするわ。おばちゃん、レモンとイチゴ、お願いします」
 歌うように言いながら満里奈さんが財布を出そうとしたので、ぼくはあわてて「自分が出します」と言った。ズボンの裏ポケットから財布を出そうと手を回そうとしたところで、
「いいって。今日は私が誘ったんだから。はい。おばちゃん」
 満里奈さんは二人分のかき氷代をささっとおばちゃんに手渡した。「すみません」恥をかいた気分で謝ると、
「ねえ、外で食べません?」
 満里奈さんはさっとぼくの腕をつかんで、外に向かおうとした。何かの間違いではないかと思うほど大胆な密着に、ぼくが息を飲んだのは言うまでもない。かき氷用の、まんまるとした氷の塊を取りだしていたおばちゃんも手の動きを止めて、目を丸くしていた。
 ただ、彼女にすればなんでもないスキンシップだったのだろう。ぼくを外に連れ出すと、すぐに腕をほどいて、「ここ、座って」とまるで自分の家のようにパイプ椅子を差し出してきた。
 ぼくは戸惑うばかりだったが、ふいに勇吉のことを思い出した。勇吉もスキンシップが過剰なところがあって、すぐに肩を組もうとしてくる。全然似ていないのに、なぜか勇吉と満里奈さんは気が合うのではないかと、変な嫉妬心にも駆られた。
 店の外のパイプ椅子に並んで座った。一本の道路を挟んで、真正面には日本海が広がっていた。カンカン照りではあったが、小屋の横にむくの木があるため、ぼくたちのいる場所だけは程よく日陰となっていた。蝉もうるさく鳴いていた。
 ガリガリガリとかき氷を作る音も聞こえてきた。
 かすかに波の音もする……。
 夏の音が四方八方から響いてくるなか、ぼくは緊張して、まともに隣の満里奈さんを見られないでいた。アスファルトの地面にできた木陰をじっと見つめていた。一匹の蟻が、ぼくと満里奈さんの足元を行ったり来たりしていた。
「ねえ、潤さんは毎年、こっちに帰ってきているんですか?」
 満里奈さんがこちらの顔をのぞき込むように話しかけてきた。
「え? あ、いや……こっちにきたのは小学生以来で……」
「そうなんですね!? じゃあ、昨日お祭りに来ていたのも、ほんまに珍しいことやったんですか?」
「そ、そうですね。お祭りに行ったのも初めてで……」
「初めてやったんや? 小さいお祭りやからビックリしたのと違います? 京都市のお祭りはもっとすごいですもんね 祇園祭りとか……五山の送り火とかもありますもんね」
 ろくに顔も向けられないでいるというのに、満里奈さんは興味津々といった感じで喋りかけてくる。ぼくは「いえ」「あ、はい」と答えるのが精一杯で、ついにはポタポタと木陰のアスファルトの地面に汗が垂れ始めた。
 蟻が汗で滲んだ部分をよけながら、歩き回る。
 やがておばちゃんがかき氷をお盆に乗せて、店の外まで出てきた。
 レモンとイチゴ。黄色と赤。それぞれの色に染まったかき氷を受け取り、ぼくはようやく顔を上げることができた。それを待っていたかのように、
「かき氷って、夏の雪って感じで素敵」
 満里奈さんは独り言のようにつぶやいた。
「夏の雪……」
「そう。夏なのに、ここだけ雪が積もっているみたいで……」
 目にキラキラとしたものが飛び込んできて、ぼくは思わず満里奈さんのほうを見た。満里奈さんはガラス製の皿をかざすようにして、夏の雪を眺めていた。ガラスに陽の光が反射していた。
「そうですね」
 ビー玉のようなキラキラを眺めながら、夢見心地でつぶやいた。
「ね! 潤さんもそう思う?」すると満里奈さんは身を乗り出すようにして、同意を求めてきた。
 にぃと口角もあげて、並びのいい白い歯が見えていた。まっすぐに目を見つめてくる。ぼくはふたたび恥ずかしさに俯きそうになったが、妙な親近感も覚えた。満里奈さんの白い歯をにぃと見せてくる無邪気な笑みが、勇吉とどこか似ていた。
  勇吉みたい、と思ったせいか、ぼくは先ほどまでの気の張っていた緊張が少し和らいだ。
「はい……思います」
 表情も緩んで、自然と口元も綻んだ。
「でしょー。さすが潤さん。潤さんなら、わかってくれると思った」
 満里奈さんは照れるように肩をすくめて笑った。
 さすが潤さん──。その言葉もまた勇吉の「さすが潤や」という声を思い出させた。
 ふと気になって、「勇吉のことは以前から?」と聞いてみた。ようやく自分から話しかけられたけど、結局は勇吉の話題だなんて、ぼくはやっぱり勇吉に頼りっぱなしだ。
「ん? あ~、山谷勇吉さんね。ううん。ちゃんと会ったのは昨日が初めて。舞子から『すごい一年生が入ってきた』って話は聞いたことがあったけど。潤さんはいつから仲良しなの? 勇吉さんと」
 満里奈さんはまだかき氷に手をつけず、お皿を両手に持ったまま、ぼくを見つめてくる。
「ぼくは、小学六年生のときに……」
「そうなんですね。あれ? じゃあ、それ以来、勇吉さんとも会っていなかったの?」
「ええ。中学三年間はこっちに戻ってきていなかったから。実はぼくも勇吉とは今年の夏まで、ちゃんと遊んだことがなかったんです」
「へえー。そんなふうには全然見えなかった。昨日ちょっと会っただけやけど、潤さんと勇吉さんって、なんか二人だけの固い友情で結ばれている感じがして、羨ましかったんです」
 言いながら満里奈さんは小さなスプーンでかき氷をつつき始めた。羨ましいと言われたものの、ぼくと勇吉が大人の女性に悪さをしていることも見透かされている気がして、
「かき氷、食べましょうか。溶けてしまいます」
 ぼくは誤魔化すように言うと、満里奈さんよりも先にレモン色の夏の雪を口に運んだ。
「はい」
 満里奈さんもぼくが食べ始めたのを見てから、イチゴの雪を口にパクリと含んだ。
「うん。すごくおいしいです」
 奢って貰ったお礼も込めて、ぼくは笑顔で言った。
「ね、おいしいですよね。よかった」
 満里奈さんは安心したように微笑んで、うなずいた。
 勇吉の話題で会話が弾んだおかげだ。それからぼくは満里奈さんと普通にお喋りができた。満里奈さんも本が好きで、実は冒険小説が好きだと教えてくれた。
「十五少年漂流記とか宝島とか、トムソーヤとか。男の子が読むようなものばかりで恥ずかしいけど」と言った。
「へえー。俺はそういうのを読んだことがないなあ」
「面白いですよ。とくにオススメは十五少年漂流記! 今度、貸してあげる」
「ほんまに!?」
 大げさに感動したように言ったのは、それを理由に満里奈さんとまた会えると思ったからだ。
「もちろん! 私も潤さんが読んでいる本を読んでみたいなあ」
「いいですよ。持ってきます! こっちに来るとき、大量に持ってきたので」
 結局、勇吉と遊んでばかりで全然読んでいないのだが、リュックに詰めてきて良かったと思った。
「いいの? じゃあ、あれがいい。さっき潤さんが立ち読みしていた大人の恋愛小説。私もああいうのを読んでみたい」
 満里奈さんが純真な瞳でまじまじと見つめながら求めてきたときは、さすがに面食らったが、
「いや、あれはだめです。それよりももっと面白いものがありますから」
「そうなの? うん、じゃあ、潤さんのオススメの本で……いつにする?」
 彼女のほうから次の約束を決めようとしてくれたから、ぼくはもう口の中に広がるレモン味にうっとりしてしまった。
「い、いつでも! 明日でも大丈夫です!」
 ぼくはレモンの匂いをぷんぷんさせながら叫んだ。
「じゃあ、明日……三時ぐらいにまたここで待ち合わせしますか?」
 周りにはぼくたちしかいないのに、満里奈さんは内緒話をするように顔を近づけてきた。ぼくの耳元でささやくようにいうものだから、イチゴ風味のかぐわしい息もかかった。
「はい!」
 かき氷の甘い汁がポタポタと垂れていたのだろう。いつの間にかぼくたちの足元には蟻が集まっていた。



「ほんまに行かないのか!?」
「うん。今日はいいかな」
 ヒグラシの鳴く夕暮れ、祖母の家の庭でぼくたちは立ち話をしていた。言おうかどうしようか迷ったけど、今日、満里奈さんと会ったことは黙っておこうと思った。
「なんで? 飽きたのか?」勇吉はいますぐにでも行きたい様子で、庭に置かれたぼくの自転車のハンドルをすでに掴んでいた。
「飽きたとかやないんやけど。今日はそういう気分じゃないんだ」
「なんだよ、そういう気分じゃないって。女みたいなことをいうなよ」
 舌打ちするような言い方をしつつ、勇吉は呆れたように笑った。女みたい、といわれて一瞬傷ついたが、満里奈さんのことで心はふわふわしていたから、すぐにどうでもよくなった。
「悪い、悪い。実はちょっと腹が痛くてな」適当に嘘をついておくことにした。
「そうなのか? まあ、それなら無理すんな。潤が行かないなら、俺も今日はやめとくよ」
 今日は三号機の静子さんのところに行くつもりだったらしい。勇吉は残念そうに言うと、自転車から離れて、そのかわり煙草を口に咥えた。百円ライターで火をつけて、ゆっくりとうまそうに吸い込む。そして、夕暮れの空を見上げながら、煙を吐き出した。
「一人でも行けばいいのに」
「ああ? いやあ、潤が一緒じゃないとつまらんわ。なあ、明日には腹、治るか?」
「そんなのわかんないよ」
「治せよ、絶対。明日は火曜日や。二号機といつもの場所で会うから。絶対きてくれよ」
 二号機は理沙さん。近所に住んでいる二十六歳の若妻さんで、いつもの場所とは原っぱの中にある掘っ立て小屋のことだ。
「あ……いや、ごめん。明日は俺、用事があるんだ」
 満里奈さんと会うのだ。なによりも譲れない約束である。
「ええ!? なんやねん、用事って。どこまで行くねん」
 咥え煙草で煙が目に入るのか、勇吉がしかめ面で訊ねてきた。
「えっと……おばあちゃんの病院に付き合うことになっていて」
 とっさに思いついた嘘だったが、
「そ、そっか。さすがにそれだとしゃあないな」
 勇吉も祖母のことを出されると、それ以上はなにもいえないようだった。
「うん」
「わかった……さすがに理沙をあの小屋でずっと待たせるわけにもいかんからな。明日は俺、ひとりで行くわ」
 夕暮れの赤のせいか、勇吉の力ない笑みがとてつもなく寂しそうに見えた。
「悪いな、そうしてくれ」
 ホッと胸を撫で下ろしたものの、ぼくは罪悪感に駆られた。
 別に今夜、静子さんのところに行っても良かったし、なんなら今日のぼくはいつも以上にムラムラしていた。
 満里奈さんの体から漂っていた夏みかんのような香りやノースリーブのワンピースから覗いていた腋窩、自転車のサドルにのっかかっていた白桃のようなお尻、かき氷を口に運んでいた上品な唇……。清純可憐な満里奈さんをそういう目で見てはいけないと思っているけど、心の奥底で淫らな妄想が膨らんでしまっていたのは間違いない。
 この欲望を三号機の静子さんで発散させたい気持ちもあるのだが、なぜだろう。満里奈さんの純粋無垢な笑みを思い出すと、胸がチクチクと痛むのだ。
「まあ、とりあえず潤は早く腹を治せよ。俺はそろそろ戻るわ」
 勇吉は煙草を庭の土に投げ捨てて踏み消すと、もう機嫌は直ったのか。いつものにぃとした笑みを向けてきた。やっぱりどことなく満里奈さんの笑い方と似ていたけど、息は煙草臭かった。
 翌日もよく晴れていた。勇吉が二号機の理沙さんと掘っ立て小屋で楽しんでいる午後二時頃に、ぼくは家を出た。満里奈さんにどの本を渡そうか悩みに悩んだ末、結局はとりあえず全部持っていくことにして、ぼくはリュックを背負いながら自転車で疾走した。
 昨日のかき氷屋まで三十分ぐらいだった。約束の時間より三十分も早く着いてしまったので、まだ満里奈さんは来ていなかった。
 むくの木に覆われた駄菓子屋のような店の前に自転車を停めて、パンチパーマのおばちゃんに「こんにちは!」と愛想良く挨拶をした。おばちゃんは昨日と変わらず、警戒するような視線を向けてきたが、ぼくは満里奈さんと会えることに心がウキウキだったから、
「ちょっと待たせてくださいね! とりあえず、カルピスをください」
 この店で一番高い飲み物を注文して、外のパイプ椅子に腰掛けた。
 ひとりでカルピスを飲みながら、真正面の日本海を眺めていると、チリリンチリリンと自転車のベルの音が聞こえてきた。音のしたほうを見ると、雲ひとつない夏空の下を、空色の自転車を漕ぎながら満里奈さんが向かってきていた。今日は可愛らしい麦わら帽子に白の半袖ブラウス、黄緑色でわずかに素足が透けてみえる薄地のロングスカートを穿いていた。
「お待たせ。ごめんなさい。遅くなって」
 満里奈さんが店の前に自転車を停める。ちょうど一筋の風がふいて、彼女のスカートがヒラヒラとはためいた。ふくらはぎがちらりと見えた。
「いえ、全然。ぼくもさっき来たばかりです」
「本当? よかった。潤さんはなに? カルピス、飲んでいるの。私も同じのにしようかな」
 満里奈さんが店の中に入ろうとしたので、
「今日はぼくに奢らせてください」
 昨日の二の舞にならないようにぼくはすぐさま財布を取り出して、カウンターの中にいるおばちゃんに代金を渡した。ぼくが三十分前から待っていることを知っているとあってか、おばちゃんは「はいはい」と呆れるように返事した。
 それからぼくと満里奈さんは店の外のパイプ椅子に腰掛けた。ぼくが大量の小説を持ってきたことに満里奈さんは「すごい」と両手で口を覆って驚いていた。今日も彼女の体からは夏みかんのようなフルーティな香りがしていた。
 会話に困ることもなかった。ぼくはそれこそ一冊ずつお気に入りの小説を紹介して、彼女に興味を持ってもらおうと必死だった。満里奈さんはそのあいだ、ずっと笑顔で聞いてくれて、気づくと一時間ぐらいカルピス一本で、かき氷屋の前に居座っていた。
 最終的に満里奈さんは壺井栄の『二十四の瞳』を選んだ。
 満里奈さんは昨日約束したとおり、『十五少年漂流記』を持ってきていた。
 受け取ってページを開くと、「チェアマン島」と書かれた一枚の地図も載っていた。
「この島に少年たちが漂流するんです。架空の島だけど。私ね、この地図と見合わせながら、お話を読むのが好きなんです」
 満里奈さんが体を真横に寄せて、一緒に地図を覗き込む。冒険をしたがる少年のように瞳を輝かせているから、ぼくはドキドキしながらも彼女の純粋さにますます感動した。
「絶対に読みます」
「本当? 私も読めるときに読んでみるね。ちょっと勉強も忙しくて、読書だけもしていられないんだけど。一週間ぐらいで読めると思うわ」
 満里奈さんは少し申し訳なさそうに言った。
「全然いいです。ぼくも一週間もあれば、楽勝で読めます」
「ありがとう。じゃあ、次は一週間後にまたここで会いますか?」
「一週間後……今日は十二日だから、十九日?」
 本当はもっと早くに会いたかったが、ほかに会う理由も見つからなかった。
「そうですね。これからお盆だし。うちに親戚もたくさんくるから、私も家の手伝いをしなきゃいけないんで。なかなか遊びにも来られないから、ちょうどいいかも」
「わかりました。十九日の、また三時ぐらいにしますか?」
「ええ。楽しみ。そのときには私、『宝島』を持ってきます。あ、いけない。私、四時半から家庭教師がくるんです。そろそろ帰りますね」
 あっという間の一時間弱だったが、ぼくは大満足だった。手元には満里奈さんの匂いのついた文庫本が残り、次の約束も取り付けることができた。
 満里奈さんを見送ったあと、もう一本カルピスを注文した。
 それからの一週間は長く、ほとんど外に出ることもなかった。勇吉は毎日、ぼくを誘いに来たが、「ごめん。まだ体調が悪いんや。夏風邪っぽい」という理由で、一号機や二号機、三号機のもとへ行くこともなかった。満里奈さんのことを思うと、どうしてもそういう気持ちになれなかった。
 夏風邪を理由にしていたから、勇吉の住むバラック小屋を訪れることもなかった。陽太や千鶴さんとも夏祭り以降、会っていない。千鶴さんに対する恋心も満里奈さんの出現によって、完全に消え失せていた。
 むしろ、千鶴さんのだらしない色気に嫌悪感も持ち始めていた。やっぱり女性は満里奈さんのような清純さがなければならない。そう思い始めると、一号機や二号機、三号機に対しても同様の感情を抱くようになり、ぼくは最近、女性をモノのように扱う勇吉にも苛立つようになっていた。
 待ちに待った一週間後はあいにくの天気だった。巨大な台風が関西地方に迫っており、雨こそ降っていないが、風は強い。空にはどんよりとした雲が漂っていた。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様で、せっかくのデートなのに、とぼくはやり場のない怒りを抱えながら、かき氷屋へ向かった。今日もリュックにありったけの小説を詰め込んでいた。雨が降り出しても大丈夫なようにカッパも持ってきた。
 約束の時間よりも三十分早く、かき氷屋に着いたときには、いまにも泣きそうな空色で、店の外のパイプ椅子もすでに片付けられていた。
 ぼくは店内に入った。おばちゃんにカルピスを注文して、店内の椅子に腰掛けると、この一週間のあいだで三回は読破した『十五少年漂流記』を読み始めた。
 満里奈さん、来るだろうか。
 不安に落ち着かず、小説の文章も頭に入ってこない状態で待つこと二十分ちょっと。約束の十五時になる五分程前に、小走りでこちらに向かってくる満里奈さんが見えた。
「あ!」ぼくは嬉しさのあまり、椅子から立ち上がった。
 満里奈さんは胸元にフリルのついたピンクのブラウスに、下は黒のパンツだった。肩から小さなバッグをかけて、右手には傘を持っていた。
 走っているから、ふくよかな胸元も大きく弾んでいた。
「よかった、潤さん。もう来ていたんですね。台風が来ているから、走ってきちゃった」
 彼女は店の中に駆け込むなり、ハアハアと息を荒げながら言った。ぼくはすぐに彼女のために椅子を差し出そうとしたのだが、
「あ、ごめんなさい。今日はすぐに戻らないといけないんです。雨が降ってくるから、早く帰ってきなさいとお母さんに言われていて……」
「そうなんですね……。確かに雨、降りそうですね」
「うん。潤さんも早く帰らなきゃでしょ。あ、これ……『宝島』」
 肩からかけた小さなバッグから文庫本を出して、満里奈さんはさっと手渡してきた。
「あ、ありがとうございます。これ、面白かったです」
 たくさん感想も用意していたけど、ひとつも言えないまま、ぼくは『十五少年漂流記』を返した。
「ほんと? あと、もうひとつごめんなさい。潤さんに借りた本、忙しくてまだ読み切れていなくて……次会うときまでに読んでおくから、そのときに必ず持ってきますね」
 満里奈さんが申し訳なさそうにいう最中、空が一段と暗くなり、ゴロゴロと遠くのほうで雷の音も聞こえた。
「雨、降ってくるで」
 突然、カウンターの奥からおばちゃんが声をかけてきた。早く追い出したい気持ちがありありと伝わる口調だった。
「そうですよね。じゃあ、潤さん、また……」
「あ、待ってください。次って……いつ会えますか!?」
 ぼくはそれこそ天に願うように言った。
「次……そうですね。また一週間後でもいい? 明日から夏季講習があって……」
 つれない言い方に聞こえたのは気のせいだろうか。同時にパラパラパラとトタンを打つ雨の音が強まった。
「わかりました……一週間後、二十六日ですね」
 雨音にかき消されるぐらい、ぼくの声は小さくなっていた。
「うん。潤さんも気をつけて帰ってね」
 女物の花柄の傘をさっそうと開くと、満里奈さんは一度も振り向くことなく、雨の中を駆け出した。
 ぼくはそのあと、豪雨の中を自転車で帰り、本当に風邪を引いた。




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