見出し画像

ウメハラになれなかったヤンキーの90年代の格ゲークロニクル(後編)・『過ぎ去りし日に向けた花かご』第3回

元ヤンキーで、元ヤクザの元で喫茶店店主をやったのち、精神疾患……ビデオゲームメディアで最もハードな人生を歩むライター、池田伸次。彼と様々なゲームと交錯するとき、ビデオゲームからある物語が浮上していく——自伝『過ぎ去りし日に向けた花かご』第3回、福井県での90年代格ゲー回顧録、後編。

前編はこちらから。

’98。ウメハラとヌキは大会で激闘を続けていた。ゲーメスト主催による『ストリートファイターZERO3』の全国・世界大会が開催され、各地から猛者が集う中、ウメハラとヌキは勝ち残り、決勝で相まみえた。東京のゲームセンターで闘い続けたふたりは活躍しつづけており、いまも自分より強い世界のプレイヤーと戦うために研鑽しつづけている。

プロが90年代から強烈な闘いを繰り広げていた歴史は、インターネットで調べればすぐに見つかる。そんなウメハラたちのキャリアだけを見れば華やかかもしれない。しかし、彼らが出てくるきっかけになった当時のゲームセンターは違った。この年からだんだんと熱を失っていったように思える。特に福井県では。

執筆 / 池田伸次
企画・編集・構成・ヘッダーグラフィック / 葛西祝
監修 / 伊藤ガブリエル

本テキストは最後まで無料で読むことができます。購入後は末尾に本企画の今後についての記載が記述されています。

17歳になった自分は相変わらず福井県の地元で格ゲーを続けていた。しかし、明け暮れることは減った。ぬるく家でNEOGEOを仲間とプレイするのに留まった。いつもと同じようにT橋やS治と「KOF」をプレイしていたが、ふたりからはだんだんとゲームへの気持ちが離れてきているのが見えた。

Beachに通うことはどんどん減っていった。とりわけ「KOF」に対する情熱が無くなっていった。行けばある程度勝てることがわかりきっているからだ。そのくらい、地元では上手くなっていたのだ。

今にして思えば他の地域へ闘いに行けばよかったのだが、当時は井の中の蛙だった。そもそも全国規模で格ゲーが流行っているという事実が頭から抜けていた。「全国には自分より強い奴がいる」という発想はなく、よそへ行って戦おうとはしなかった。地元のヤンキーにとっては福井県が目に見える世界のほとんどだったのだ。

たまにBeachに通ってもプレイヤーがぜんぜんいない。対戦する人がいなくてCPU戦をしていた。たまにCPU戦を後ろで眺める人たちがいたくらいだ。その人たちは対戦ゲームをプレイせず、中古ゲームを買っていた。

この頃はすでにプレイステーションなどコンソールが強く、アーケードは趣味人しかやっていなかった。Beachではコンソールの人気タイトルの中古が主力商品となっていた。S治が店で『FINAL FANTASY VII』を買って、なぜか自らで遊ばず、人にプレイさせて脇で観ていた。のちにゲーム実況をやる自分だったが、初めての視聴者がS治というわけだ。

しかし、店は中古ゲームだけでは回らないそうだった。いつも笑顔だった店長もだんだんと表情をこわばらせていった。真剣な表情で店の進退を語るようになっていた。

「そろそろこの店潰すぞ、お前らアホガキの面倒見るのも終わりや」店長は半分冗談めかしてそう言った。


’99。Beachへはたまに中古ゲームを買いに行く程度の付き合いに留まった。店長ともどこか距離ができていた。

仲間たちの趣味は格ゲーからバイクに移っていった。いつしか自分もバイクに魅了されていく。夜な夜なツーリングに出かけては、手頃な駐車場でバイクを停めてタバコを吸いながらコーヒーを飲んでダベるのがあらたな青春となった。恋バナなんかもした。T橋も自分もS治も初めての彼女を作っていた。

自分は彼女とばかり遊んでいて、Beachへは寄りつこうとしなかった。このころは格ゲー自体の存在感も薄くなっていたように記憶している。

2000。そんな対戦格闘の熱を取り戻そうとしたのか、「CAPCOM VS. SNK」というライバル企業同士のキャラが戦う夢のようなゲームが稼働した。格ゲーの存在感を取り戻そうとする豪華絢爛な祭り。だが自分は、なんの食指も動かなかった。

今にしてみれば、「CAPCOM VS. SNK」は祭りというよりも夢の終わりだったのだろうか。ライバル同士の競演でもゲームセンターを救いきれなかった。

Beachは店長の言葉どおり、本当に潰れてしまった。あれだけ慕っていた店長の行方もわからなくなった。

代わりにめでたいことがあった。T橋の結婚だった。相手はなんと、自分の初めての彼女の妹だ。妹はT橋に一目惚れしたらしく、自分をだしにして3人で会っていた。気が付いたらT橋とその子が結婚までたどり着いていた。

2001。そして自分は初めての彼女にフラれている。

中1の頃にBeachを出禁になっていたH馬とはいい関係を続けていた。ところが、自分たちが二十歳のころあいに、交通事故で夭折してしまった。ドラッグを買いに行った帰りにパトカーに追いかけられて運転をミスって、とのことだった。

SNKも一度死んだ。

SNKは世紀を跨いでも90年代からの対戦格闘の成功を追い続けた。しかしすでに時代は変わり、この年に倒産した。それから、SNKタイトルの権利を手に入れた新会社プレイモアが設立された。やがて対戦格闘メーカーというブランドを押し出すため、SNKプレイモアへ商号を変えた。

カプコンは時代の流れに翻弄されながらも、コンスタントに傑作を作り続けた。対して、SNKプレイモアは紆余曲折の道のりを辿っていくように見えた。

H馬が亡くなった晩、奇妙なことに彼の夢を見た。自分と一緒に遊んでいる夢だった。H馬、ひどくさみしくなったよ、そっちの世界はどうだい?

2004。対戦格闘のブームが過ぎ去るどころか、爆音の電子音とタバコの匂いに覆われたゲームセンター自体も福井県から消え始めていた。

ところが、ゲームセンターで育った人間が今でも語り継がれる伝説を生み出していた。ウメハラが東京から世界へ飛び出していた。

アメリカのカリフォルニア州で行われた対戦格闘ゲーム大会Evo 2004。『ストリートファイターⅢ 3rd STRIKE』の準決勝。ウメハラはケンを使い、春麗を操るジャスティン・ウォンと対戦。ウメハラは体力ゲージぎりぎりに追い詰められる。ジャスティンの春麗がスーパーアーツを放ち、誰もが終わったと思った瞬間、なんとウメハラがブロッキングからの反撃を決めた伝説の試合だ。

このころの自分は地元の本屋で働いていて、ようやくまともにネットに繋がるパソコンを買ったころだった。そして偶然ウメハラの逆転劇を知った。一流のショウとさえいえてしまうその立ち回りは網膜に焼き付いて、その日の晩はどきどきしながら眠った。

しかし、だ。ウメハラの逆転劇を見ても、ゲームセンターに足を運ぶことはなかった。ウメハラと自分には対戦格闘に対する、なにかやりつづけるための根本的な核のようなものの有無を感じた。ウメハラはその核を持っているから地元から一人で世界へ軽々と飛び出せているようにも思えた。

そういう核が自分に無かった。しょせん自分が格ゲーをやる目的は地元の仲間と群れることでしかなかった。群れながらゲームが上手くなれればと思っていた。

2006。日本では対戦格闘ゲームは冬の時代を迎える。このあたりからインターネットでオタクたちが格ゲー衰退論を延々と語るようになる。

ウメハラはこのころ、対戦格闘の世界から離れ、さまざまなアルバイトをしていたらしい。格ゲーをきっかけに東京からアメリカまで渡り、広い世界で闘ったゲーマーであっても、この時代はプロとして成立する土壌はまだできあがっていなかった。彼は麻雀のプロを目指したり、介護職に行ったりそんな時期を過ごしていたようだ。

自分はというと……25歳を迎えた当時も、まだ福井県で過ごしつづけていた。しかし、だんだんと地方の閉鎖性によって精神を病み始めていた。

10代から福井で過ごし続けたころ、別にここから出なくていいとすら思っていた。T橋やS治たちもそうだろう。地方暮らしには地方暮らしの誇りがある。子供の頃はそれでも良かったかもしれない。

しかし、地方でずっと暮らしていると話が変わってくる。仲間たちは妙な連帯を生みだし、なにか閉鎖的な雰囲気を醸成してゆく。そこに溶け込めているうちはいい。しかしその閉鎖性によって自分の心が崩れ始めた。心を病んだ者は、息苦しさを味わうことになる。調子を崩し始めた自分に対し、S治もT橋も腫れ物を触るような扱いをしはじめた。

この年に精神科通いを始めた。振り返ってみれば、本当はずっと前から病んでいたと思う。だんだんと人間関係も地元の人間より、ネットで出会った人たちへと比重が変わっていった。PCのゲームを遊んだり、ゲーム実況をやったりするなかで出会った人たちとの交流が増えていった。“仲間と群れて遊ぶ” 欲求は『Counter-Strike』などのFPSで満たすようになる。

2023。『ストリートファイター6』が発売された。オンラインで数知れないプレイヤーが闘い、世界で大会が開かれ活況を呈した。対戦格闘の熱狂はずっと前からゲームセンターからオンラインへ主軸を移し、何年も経っていた。

オンラインで注目されるのはプロゲーマーだ。かつては成立するかどうか危ういものだったそれが、今ではひとつの職業となっていた。そしてウメハラは、知名度も人気もトップのプロゲーマーとして活動している。

2024。ゲームセンターはこの30年の間で形を変えた。男性ばかりを惹き付ける匂いを放っていたゲームセンターは、プリクラなど非ゲーム機など、女性を惹き付ける匂いを持つものが登場した。さらに子供向けゲームの登場で、全年齢が訪れやすい場所になった。

しかし、そこに自分の居場所はない。ゲームセンターとは90年代のBeachが見せた、六畳一間のような空間こそ相応しく思う。よって、去った。東京にはゲーセンミカドなど、かつてのゲーセンに近い匂いの場所もあるが、福井にも名古屋にもそうした場所はない。

地元の仲間とはゲームもバイクも一緒にやることがなくなると、そのまま縁も遠くなってしまった。T橋やS治たちなど、中学の仲間はいまでもみんな福井県で暮らしている。自分は名古屋に出ていった。

T橋とは卒業後も親友として過ごし、3年前までは縁が続いていた。いまは連絡も取れなくなってしまった。地元愛の強い彼に言わせれば、名古屋に行った自分は裏切ったことになるのだろう。S治は風の噂に聞くところによると最近結婚したらしい。

Beachの店長もいまはどうしているのだろうか。年が20以上離れているのに友達のように振る舞ってくれた彼を忘れられない。みんなそれぞれの人生を歩んでいる。

中学の頃から、40代を迎えた今も戦いを続けるウメハラは、あまりに遠い存在であり、尊敬するとともに”自分の試し切れなかった可能性”を見るようで、まぶしく映る。ただ、あの頃のゲーセンの熱狂が長じて、いま自分がゲームライターをやっているところもある。

いまはみんなゲームから離れた。だけど自分はしがみつくように毎日ゲームをやって、仕事にしている。人々は変わっていった。今はそれでいい。

池田伸次 SHINJI-coo-K名義でヒップホップビートメイカー業のかたわらで、フリーランスゲームライターを営む。通称シンジ。
●Twitter:@SHINJI_FREEDOM ●公式サイト
Amazonギフトで書き手を応援しよう!

ここから先は

68字

¥ 500

この記事が参加している募集

心に残ったゲーム

ゲームで学んだこと

『令和ビデオゲーム・グラウンドゼロ』は独立型メディアです。 普通のメディアでは感知していないタイトルやクリエイターを取り上げたり 他にない切り口のテキストを作るため、サポートを受け付けています。