きっと話すのがあまり得意じゃないから。
私はあんまり話すことが得意ではない。
誤解を恐れずに言えば、「自分の気持ちを言葉にして口にすることが得意ではない」という表現が適しているだろうか。文章にするとすらすら出てくる自分の素直な気持ちも、口にしようとすると身体が強張ってしまう(私の場合、力んで肩が上がる)
心を開いていないわけではないのだけど、開こうとすると。そしてそれを話すという手段を以て表現しようとするとなかなか上手くできない。
お付き合いをした恋人達と例えば何か本音を言おうとすると、たとえ電話であっても涙が出てくることがあったし、そもそも口にするまでに相当な時間を要することもあった。だからこそ「あんまり気を遣わずに、本音言っちゃっていいんだよ」なんて言葉掛けをくれたり、「心、ミルクレープすぎるでしょ(笑)」とユーモアたっぷりにいじってくれた相手に対しては割と安心して話せた方だと思う。
先日、以前住んでいた街でお友達になったお豆腐屋のお姉さん(ほぼお母さん的存在)と会った際のこと。お姉さんは「少し人に対して壁を作っている、と受け取られてしまうことがあるように思う」と言った。
こういう人から見た自分を言ってくれる存在は凄く有難い。確かに私は最初は誰に対しても基本的に壁越しに交流をする。そして、この人なら、と思った相手に対しては少しずつ心を許す。「話す」ことで心を許すのはやはり最終手段ではあるけれど、文章やその他の手段を以て壁をゆっくりと剥がしていく。
そして、お恥ずかしいことに心許した相手には割としっぽを振って全力で甘えるタイプだなと思う。
あとは、思い返してみればインターンをしていた時もそうだ。企画を打ちだてて、プレゼンにまとめて、黙々と推進していくことは得意だった。けれど、プレゼン自体は得意ではなかった。
今考えたらすんごい云いようだ、と思うけれど「筧君の優秀さは、ガム食って30分食っちゃべってようやく分かる」と褒めているのか、けなしているのか分からない言葉を上長に言われたこともある(今は笑い話なので御安心を!)
就活も、必死に自分自身を“頭良く”見せるために1段も2段もギアを上げて嘘か本当か分からない言葉を羅列させた面接をしていた。
幼い頃は口が達者で、口から生まれて来たような子だった私。海外で自由奔放に育っていた時はむしろ言わなくていいことまで言ってしまうような子だったのだが、たまたま女子特有の「グループ」が形成される小学校の中~高学年で転校が多かったこともあって、「何かを言う」ことへの怖さを覚えてしまったのかもしれない。
実家で暮らしている時に、母に何かを言われた時に兄は言い返したり、割と言葉を口にして返せる人だなと思う。けれど、私は黙ってしまう。
黙りたいわけではなくて、頭に浮かんだ言葉をどう表現すればいいか、言って意味があるのか、無駄なんじゃないか、複雑に絡み合った感情が縺れてどうしようか分からなくなっているうちに気づけば黙り込んでしまっていた。「お兄ちゃんは結構言葉にするのに、れいちゃんはいつも黙って行っちゃうよね」と言われる。
確かにそう、確かにそうだけど…。
言葉を口にする、という手段が私にはあまり得意じゃないだけなのだ。その代わりに私は文章にして、言葉を「描く」ことでなら表現できるのだ。
手段が、描くなら私は私の本音を表せる。
そもそも、やり取りを交わすこと自体があまり得意ではない気もするけれど、LINEと電話だったら前者を選ぶし、季節柄のポストカードや何かで誰かに季節に言葉を添えて贈ることは好きだ。
そうか、私はきっと話すのはあまり得意じゃない。だけど、その代わりに「描く」という手段が私を表現しているのだ。
それは誰かにとっての音楽という手段であって、
別の誰かにとってのスポーツという手段であって、
また違う誰かにとっての演技なのだろう。
だとすれば、私は私の描くという表現と。誰かにとっての、自分を表現する手段を大切にしたいと思う。
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