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また会おう 群青の町で

「日没を祭れ」のツアーが終わってから早、数日。
早く伝えたい思いが多い反面、私なんかが発信していいことなのか、私の限られた語彙で伝えることはできるのだろうか。言葉に出すべきではなく、心にとどめるべきではないだろうか…、様々な考えが私の中を駆け巡った。
それでも、言葉にすることで伝えられることがある、言葉に出すことで分かる思いがある。そう信じて言葉を紡いだ結果がこのnote。

今までとは少し違う思いで綴っている。
どうか改めて被災地に心を寄せるきっかけになりますように。

注)今回、被災地の様子についてかなり明確に書き記している部分もあります。その為、少しでも抵抗がある方は「読まない」という選択をして、この画面をそっと閉じて頂けると幸いです。


1.きっかけ

和合亮一さんがTwitterにて募集していた「日没を祭れ」。
気になってはいたが応募するかかなり迷っていた。
ところが、わせ女の後輩が「誰かが参加するなら行きま~す」なんて言うから、秒で「よし、行こう」と即決。今回の参加に至った。

なお、今回は二人のスケジュールの都合で、6日の朝に出発、帰宅開始という皆さんより一足先に解散する行程での参加となった。

2.歌を通じて

和合さん自身による詩の朗読とその詩に込めた思いをお聴きしながらの練習。富岡町の皆さんの経験や和合さんのお話を聞きながら震災を契機に作られた歌を歌うという、またとない経験。

詩の力と場所の力、そして歌の力。自分の思いと詩人の思い、詩人が歌に託した無数の魂たちの思い。歌えば歌うほどそれらの境界線が溶けていき、歌えば歌うほど歌が歌ではなくなる。
自分でも、今回の練習から本番まで何が起きていたのかを説明することは難しい。一つ言えることは、あの瞬間にしか経験できないことを身を以て体感した、ただそれだけ。

Ⅰ.光の走者よ

「夜明けから日暮れまで」を超える歌を作ってほしいという要望で福島県合唱連盟いわき支部の皆さんによって委嘱初演されたこちらの歌。「夜明けから日暮れまで」、「楽譜を開けば野原に風が吹く」の続編となるとのこと。

作詞の軸となったのは、一人の和合さんの教え子。
あの日、警察官として住民に避難を呼び掛けに向かい津波に飲まれ、今も行方不明のまま。

「あの日 水平線の向こうへ さらわれてしまった きみと」
「歳月だけが 過ぎた 友よ きみは いつまでも」


今もなお見つかっていない彼やその他大勢の魂。
夜が明けて光が放たれるその時、波にさらわれた方々から私たちにわたるバトン。そのバトンを私たちは繋いでいく。

Ⅱ.夜明けから日暮れまで

震災があってから品切れとなったガソリン。
ガソリンを手に入れた和合さんが向かったのは富岡町の方々が避難していた場所。そこで聞いた言葉の数々から和合さんの手によって紡ぎ出されたこの詩。

目の前で人が亡くなり、突然住処を奪われる人がいる。津波の被害を受けなかったにもかかわらず、何も分からないまま避難を強いられそのまま何年、十何年、と家に帰れない人がいる。その絶望の中で生まれる自問自答。

「わたし わたしは誰」

その問いに耳を傾けてくれるのは人だけではないかもしれない。
暗闇の中に射す一筋の光。それは「明日」という未来かもしれないし、「野火」に代表される懐かしき故郷の光景かもしれない。
自問自答を続け、光を求めた先にある夜明けに何を思うのか。

Ⅲ.群青

今回のツアーでは小高中学校も見せていただくことが出来た。
震災当日の午前中は卒業式が行われていたという小高中学校。

揺れの瞬間、小田先生ご自身は職員室にいたものの、音楽室のピアノは固定用のフットプレート(お皿のようなもの)が外れ、動き回った結果、本来とは違う場所にあったとのこと。津波が話題になりがちな東日本大震災。
どれほどの揺れだったのか、どれほどの恐怖だったのか。分からないものはまだたくさんあると痛感した。

震災後に担任をしたクラスの生徒の言葉を集めて紡いでいったという群青の歌詞。
 
「自転車をこいで 君と行った海」
バーベキューセットを持ってみんなで向かった砂浜。

バスの中、小田先生の「ここです!この道を自転車で漕いだんです。」の言葉。普通の中学生が笑いながら自転車で通っていく日常の一コマが頭の中に浮かび、その鮮やかな光景が薄い灰色に染まっていく。

文字だけで知っていた情景が一気に想像の付く身近なものになった時、私が抱いた感情は「恐怖」。
どこにでもあり、誰でも思い浮かべることが出来る光景がある日を境に二度と戻ってこなくなる。そんな絶望の中わたしなら前を向くことが出来るのだろうか。

小田先生の口から語られた、パナムジカの表紙用の写真を撮りに行くときの経験。
津波が襲ってから、原発の避難区域となり、整備されることもなく月日がたった小高区。立ち入り制限が解除された直後、草が生い茂った道なき道を車で進み、堤防も流され、復興には程遠い状態の道無き道を車で進み、やっとの思いで撮った写真。

「群青」という曲に込められた思いは私たちが繋いでいかなければならない。

IV.なみえ創成小学校・中学校校歌

救えたはずの救えなかった命がある場所請戸
練習の際に聴いたこの言葉を私は二度と忘れない。
津波にさらわれ、瓦礫にもみくちゃになり傷だらけになった状態でやっとの思いで漂着した海岸。原発事故による立ち入り禁止区域となり、救助が来ることのないその海岸。
何も知らずに救助を待ち続けたその思いはいかに無念であったことか。そのことを知った家族、友人の悲しみ、絶望はどれほどのものか。

…何も知らなかった。分かっていなかった。

3.震災の爪痕

Ⅰ.東日本大震災・原子力災害伝承館

5日の本番会場となったのは双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」こちらの建物には初日と2日目の合計2回伺ったのだが、ここに向かう道中でも自分の無知さに打ちのめされることとなった。

生活感はあるのに光だけがない街。決して廃れているわけではない、今にも電気が点きそうな町なのに人だけがいない。
沿岸部に行くと、今度は建物もなくなり、ただ広い草原が広がっているだけ。

あまりにも寂しくあまりにも美しいその光景が恐ろしかった。現実の光景と信じることが出来ず、思わず窓から目をそらした。
もう震災前と完全に同じには戻ることの無い現実が目の前に現れ、なんと言葉にすればいいのか分からず、胸が苦しくなった。

Ⅱ.震災遺構「請戸小学校」

今回、一番気になっていたのはこちらの震災遺構「請戸小学校」。
外から見る請戸小は他の建物とあまり変わりのない、ただのどこにでもある学校。
ただ一つ、二階のベランダ程にある「津波到達点」を示す看板が異様な存在感を示していた。

ここで見たものすべてを書ききることは決してできない。
学校内で一番頑丈であろう校長室の金庫が丸ごと動いていたこと、給食室の機材が全て給食準備室に詰め込まれ、あまりの圧力に機材がほとんど潰れていたこと。体育館に「修・卒業証書授与式」の垂れ幕がかかったままになっていたこと。
全てが衝撃的で、絶句してしまうものばかりであった。

4.まとめ

今回、応募した理由は「群青」と「夜明けから日暮れまで」を歌いたい、という単純なものであった。

だがここで、忘れてはいけない風景をたくさん心に貰った。忘れてはいけない言葉を聴いた。全てを覚えておくことはできないし、きっと指の隙間からぽろぽろとこぼれていってしまうこともあるだろう。
だが、あそこに行けば、あの場所を思えば、頭の中に広がるのは小高の海、富岡の大地。

私より数世代下はもう東日本大震災の頃に幼稚園児や小学校低学年で、東日本大震災を「体験」していない世代になり始めている。
そんな中、少しでも震災について知り、経験を語り、後世に繋ぐ。顔を背けるのではなく、向き合う。それが私たちにできることであると思う。

いつか会えるその時までしばらくのお別れ。

また会おう 群青の町で




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