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イタリアガイド】雑学満載!サンマルコ広場の歴史と観光ポイント~ヴェネツィア~

ヴェネツィアに旅行される方は必ずこのサンマルコ広場に行くことになります。なぜならこの広場にヴェネツィアの魅力が密集しているからです。ただみるだけではもったいない。でも団体ツアーや歴史の勉強はいやだ。そんな方こそこのブログをみてから行くと、数倍楽しめると思います。

広場に翼のライオンが多いのはなぜ?

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サンマルコ寺院

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時計台

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2本の円柱

特にサンマルコ広場でよく見かけるこの翼の獅子像は、ヴェネツィア共和国の紋章にもなっています。

実はこのライオン、ヴェネツィアの守護聖人「聖マルコ」を表しています。

聖マルコとは、新約聖書の「マルコによる福音書(ふくいんしょ)」を書いた人です。

面白いのは2本の円柱にいるライオンです。正面や内側を向いておらず、変な方向を向いるのです。これには理由があり、実は東方の海アドリア海を睨みつけ、海洋都市国家であるヴェネツィアを守護しているのです。

このように、ヴェネツィア旅行では翼のライオンを探すのも面白いかと思います。数えきれないほどのライオン軍団に守られた国家を肌で感じることができます。

※マルコによる福音書を詳しく知りたい方は以下のYouTubeが参考になります。

サンマルコ寺院の歴史

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まずは広場で一番目立つサンマルコ寺院です。

この大聖堂は、聖マルコの遺体を収容していることから名付けられました。San Marcoの「San」は「Santo(聖人)」の意味です。

ヴェネツィアの商人がアレクサンドリア(現エジプト)から聖人の遺体を盗み、829年にここヴェネツィアに持ち帰りました。なんと遺体を税関職員にみつからないよう、豚肉で覆って隠したのです。イスラム宗教の税関職員は豚肉を敬遠するため、あまり調べられず無事に通れたようです。

守護聖人を手に入れたヴェネツィアの民はその後すぐにサンマルコ寺院の建設を開始しました。

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聖マルコの遺体の発見

✏️ヴェネツィア人は国や民を守ってもらえるよう、できるだけ地位の高い守護聖人を欲しかったのです。聖マルコは正教会の中では「七十門徒」のひとりとされています。「七十門徒」とは、あの超有名な最後の晩餐にでてくる12使徒たち(ヨハネやユダ等)の他に選抜された使徒です。つまり、位としては超エリートというわけです。ヴェネチア商人たちは遺体をみつけてさぞかし驚いたことでしょう。

大聖堂はギリシャ十字の形で建てられており、各腕と中央の十字の上にドームが配置されています。教会の内部はまるで宝石箱です。金色のモザイクで装飾され、それぞれのタイルには宗教的な出来事や聖書の物語を描いています。

サンマルコ寺院から飛び出す馬の像

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サンマルコ寺院の正面出入り口の上に、4体の馬の像がみえると思います。

れが「サンマルコの馬の像」です。この馬たちは力の象徴を表していますが、何度も何度も奪い合いをされてきました。この馬の像の起源は不明ですが、紀元前4世紀頃には古代ギリシャで作られていた可能性があるといいます。

ローマ帝国の暴君として知られたネロ皇帝の時代、この4頭の馬の像がローマ市内の凱旋門に飾りつけられていたと言われます。330年、コンスタンチヌス大帝がコンスタンチノープルに遷都した時、4頭の馬はローマから運ばれ、競馬場を飾るために据えつけられました。

その後、1204年にヴェネツィアの十字軍が持ち去り、約500年ほどこの略奪してきた馬の像をヴェネツィアに飾っていたのです。しかし、1797年にナポレオンに略奪されパリに持っていかれてしまいました。

ワーテルローの戦いでナポレオンを破った後、ウェリントン公爵によって最終的にサンマルコ寺院に返還されました。天候や汚染による被害のため、本物の馬の像は大聖堂の内部の博物館に移動し、レプリカが建物の正面に配置されています。

略奪に略奪を重ねて大移動してきたこの馬の像、大人気なのです。

大鐘楼(だいしょうろう)とガリレオ

96メートルを誇るこの塔はイタリアで最も高い鐘楼の1つです。

1609年にはあのガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使用して天体観測実験を行った場所でもありました。ガリレオはオランダの眼鏡職人が望遠鏡を発明したことを聞き、それをもとに自ら望遠鏡を作成して”こっそり”地動説の研究を進めたと言われています。

その後ガリレオは捕まり、牢屋に入れられます。裁判を経て自宅軟禁に減刑されるも、生涯を終えるまで軟禁は続きました。

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Giuseppe Bertini作

残念なことに、ガリレオが実験を行った当時の大鐘楼は1902年7月14日、突然崩壊しました。レンガ造りの悲劇です。しかし、幸い死者もなく、サンマルコ寺院にも被害は及びませんでした。

再建は全く新しいデザインにするか、元のデザインで復元するか議論されたようですが、最終的にはまったく同じように再建されました。

公開処刑場だった2本の円柱

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この2本の円柱は、12世紀にコンスタンティノープルからの略奪品として持ってきたものです。実は3本略奪したようですが、船で運ぶ最中に海中に落ち、3本目は回収できなかったようです。

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コンスタンティノープルを攻める十字軍

この2本の円柱の間にロープを渡し、公開処刑を行っていたのです。ヴェネツィア人は今でもこの不吉な間を通り抜けようとはしません。

ちなみに柱の上には、左は聖マルコのシンボルであるライオン、右には聖テオドーロ像が載っています。

ため息橋

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バロック様式で造られたアーチ状の外観、その下に流れる運河をみればため息がでるほどロマンティックな雰囲気に感じるかもしれません。しかし、多くの人が知っていると思いますが、橋の「ため息」はそのような意味ではありません。

この橋はドゥカーレ宮殿と刑務所を結ぶために1602年に建てられました。

その美しさにもかかわらず、囚人たちの運命が決定されるドゥカーレ宮殿の裁判室に向かう道をたどるための橋です。そのまま処刑されることも多いため、小さな窓から美しいヴェネツィアの最後をみてため息をすることから「ため息橋」と名前がついています。

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