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モヤモヤ日記~ある一週間の記録(まちの不思議 おもしろ探究日記 #13)

(本記事は雑誌『社会教育』2023年6月号に掲載された記事を転載しています)

―5月12日(金)
国分寺市の特別支援学級の増設に関する委員会が立ち上がるという情報を聞いて、友人たちと市民公募に応募することにした。市民公募枠は一枠で狭き門だ。
次男が通う特別支援学級は、この五年間パンクしている状態が続いている。支援学級を希望する子どもの数が急増し、一人ひとりに必要な支援の幅も広がっていて、先生たちの負担が大きくなりすぎている。先生たちも子どもたちも疲弊してしまっているため、支援の充実や学級の増設が必要だと、これまで様々な方法を活用して訴えかけてきた。PTA、親の会、市議会、市民公募委員、パブコメなど、市民としての声を届ける、ありとあらゆる方法を模索してきたのはこのためでもある。やっと動きだしたという事に一筋の希望を感じながら、課題の作文に取りかかる。

―5月13日(土)
シェアリング・ラーニングで八月に講演会&対話の場を開く、横浜創英中学・高等学校の工藤校長の著書「子どもたちに民主主義を教えよう」の事前読書会を開いた。子どもたちへの教え方というよりは、学校運営の改革のやり方に話題は集まり、PTAもそうだが、すでにある組織を民主的な組織に変えていくための改革を、民主的に進めていくことはできるのだろうか、といった話が展開した。改革には、一定の独善的な意志での突っ走りみたいなものも必要なのではないのか、「対話が大事」とはよく言うが、「対話」には違和感や対立が存在するもので、そんな「対話」はどれくらいできているのだろうか、という声も挙がった。「対話」という言葉は便利だが、それで済ませてしまわないように、気を付けないといけない。

―5月14日(日)
教育について学び合う教員や保護者の方々の朝活に、苦手な早起きをして参加した。社会教育士がテーマとなっていたので、私の活動紹介をしながら、社会教育士の取り方についても話をした。公的な枠組みでの取得は無償だが、かなり倍率が高く、一般にはほとんど開放していない。大学に通って取ることもできるが、仕事が確約されているわけでもない中、何十万というお金をかけて取るには、どんないいことがあるのかが重要である。私の感覚としては、取得の過程で学べる内容と、外から見たときの信用性というのが今のところ一番の回答だが、ここは取得した人たちに完全に委ねられているのが現状なので、みんなでたくさんのいいことを魅せていけたらいいんだろうなと思う。

―5月15日(月)
この春、小学校に入ったばかりの三男が「学校に行きたくない」と言い出した。学校は、ぼくが思っていたのとはちがうところだった、と。もっとやりたいプリントをたくさんできると思っていたし、休み時間は自由に遊べると思っていた。自分なりに身に付けてきた文字や数字の書き方は間違ってて、毎回書き直さないといけない。だから疲れちゃうんだ、と。
今の学校では、「みんなでちゃんとやる」ための環境を整える事に多くの時間が取られていて、その結果一人ひとりの「やりたい」「学びたい」は取り残されてしまっているように思う。疲れる・おもしろくないと本人が思っている中で、どれだけのことを身に付けていけるのだろうか。「ねぇママ、なんで学校に行かないといけないの?」という問いへの答えは、見つからずにいる。

―5月16日(火)
公民館運営審議会の答申案の仕上げに取り掛かる。国分寺の公運審では、委員自身が答申原稿を一から書いていく。それに向けて、話し合いやヒアリングなどの活動が精力的に行われるのだが、それはわりと珍しいあり方らしい。問題意識を出し合い、対話を繰り返しながら進めてきたこの二年、PTAの代表として、一市民として、これからの公民館の在り方を模索してきた。今後の公民館運営に活かされますようにと願いを込めて、言葉を綴っていく。

―5月17日(水)
今年副会長を引き受けるPTA連合会が動き出し、交流のためのSNSで活発な意見交換が始まった。P連の在り方は各校PTAの状況によって大きく左右される。ここ数年、市内では、PTA改革を精力的に進める学校も増えていて、私が所属しているPTAでも、数年前から完全任意性の活動に切り替わり、手が挙がらなかった活動はお休みという形になっている。しかし、それによって、これまで続いてきた地域とつながる活動が途絶えようともしていて、そこへ不安を感じる方との間に激しい対立も生まれている。「子どものため」という言葉を中心に置いても、その方法や関わりたい関わり方は人それぞれであり、また言葉の表現による受け取り方のすれ違いもあり、PTAの運営の難しさを実感する。各校PTAの模索が続く中、P連はどこにたどり着くのだろうか。今のところ、全くの五里霧中である。

―5月18日(木)
「国分寺の投票率を一位にプロジェクト」について、プロジェクトは中立なのか?という質問を受ける。よく言われることだが、中立とはいったい何なのだろうか。一人ひとりが生きている上で、それぞれに意見を持つことは自然なことである。そのため、プロジェクトにおいて、メンバーは中立ではないと明言している。右にも左にも偏ったメンバーが、「投票率」を中心に置いて議論しながら活動を行っている。その中で、人としてフェアであろうとは話し合っているが、活動の代表的存在として表に立つ時などは、その立場に影響力があると言われ、中立を求められることもある。人の思いがあっての活動である中、人と活動はどこまで切り分けられるのだろうか。モヤモヤの森に迷い込む。

―5月19日(金)
冒頭の委員会の市民公募枠の落選のお知らせが届く。もう十分に声は届けてきているので、仕方ない。ここからは市民として、外からやいのやいのと盛り上げていこうと思う。

▼ 雑誌『社会教育』

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