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「分かってよ」と「分かってたまるか」を行ったり来たりだ

我が家は今、イメージ戦略を練り直している。
というのも、ある日、こんなメッセージを頂いたのだ。

「旦那さんの家庭進出のお話、とても素敵です。女性の社会進出のために必要なことなので、世の中の為に沢山発信してください」

嬉しさと、申し訳なさでいっぱいだ。
確かに良いイメージを持ってほしいという下心はあったが、ここまでよく思ってもらえると胸が痛む。

毎度のことながら、そこで「はい!承知しました!」と言える人間でありたかった。
しかしながらここで偽ると、今後どうしようもない夫婦喧嘩などの発信ができなくなる。

そして何より、我が家には「父親の家庭進出」や「女性の社会進出」などといった大それた意識は皆無なのだ。
むしろ、私の「社会進出」のために夫が主夫という形で「家庭進出」をしたのだとしたら、恩着せがましく思えて私は辟易してしまう。

この思いは、私のひねくれた性格ゆえに他ならない。

この生活やこの発信に、高尚な理由はない。
ただ本当に、今までよりも少しだけ心地よく生きていきたいだけなのだ。
私にとってそれは、私が社会進出をしたら得られるものでも、夫が家庭進出をしたら得られるものでもなく、誰にも左右されることはないものだ。
自分以外の誰かの動向に簡単に左右されてしまう心地よさならば、私は本当の意味での心地よさを手に入れることはできない。

私個人としては、「家庭進出」「社会進出」の主語が男性であっても女性であっても、むしろ誰であってもよくて、誰かがそうしたいと思うのならばそうすればいいのではないかと思っている。
みんながみんな、どこかに進出しなきゃいけないわけでも、したいわけでもないんじゃないだろうか。
世の中の動向は、たまに選択肢を狭めてしまうのではないかとも思う。
得体のしれない何かに変に焦るよりは、夫と私のどちらが食卓に出し忘れた醤油を持ってくるかでジャンケンでもして、今のは遅出しだったんじゃないか、相変わらずセコイ奴だ・・・などと考えていたい。

さて、ここからは、いつも通り面倒な話をしたい。
先ほど高尚な発信理由はないと言ったが、では自分はなぜ発信しているのかを考えてみた。
すると、昔から言われてきた言葉が思い出される。

「直ちゃんは、腹の底が知れない」
「直ちゃんの本音はどこにあるの?本音が見えない」

中学生の頃から、大人になった今でも言われ続けている言葉なのだが、これを聞くたびに「え!全部本音なのに!」と同時に「そうでしょうな…(しんみり)」とも思っていた。

私は、私の本音がどこにあるのか自分でも知りたくて、そしてあわよくば誰かに分かってほしくて、書いているのかもしれない。

しかし、うーん。
あらためて振り返って見ると、「本音」など意識して話したことがないように思う。
意識すればするほど、そもそも自分は今本音なのか違うのか分からなくなってきそうだ。
(みんな自分が今本音で話しているのか違うのかどうやって確認しているのだろう)

ただ、昔からハッキリしているのは、
私の気持ちは移ろいやすく、その時良いと思っていても次の日は嫌だと思っていることも多々あるし、メール上では苦手かも、と思う人も、直接話すと好きだなぁと思ったりなど、毎日同じ気持ちでいることはできないということだ。

自分の言葉に縛られて、整合性を保つために「ああ言ったんだし、こうあらねば」と自分を戒めるのもちょっと疲れる。

そして
「ああ言ったんだけど、こういう理由でこんな行動をとっているよ」と説明するのもちょっと疲れる。

自分の言葉に責任を持つとは、誰に対する責任なんだろう。

なんてことをこっそり思いながらも、

自分には信念というものがないのだろうか。
責任感が皆無なのだろうか。
とんでもない嘘つきなのではないだろうか。

そんな風に落ち込んでみたり、自分が抱えている小さな生きづらさや、腹の奥にある正露丸サイズの鉛みたいなものを言葉にしてみようと頑張っては上手く伝わらずに、自分にうんざりする時もあった。

そんな時、
「自分を分かってもらうことを諦めるな!」
とキラッとした目をした先輩か後輩か当時の彼氏かに言われた。

と、ここまで思い出して、今気がついた。

諦めじゃない。
どうせ分からないだろう、分かってもらえないだろう、という諦め以上に、

分かってたまるかこの苦しみの楽しさが

という感情を確かに抱いている自分がいる。

(なんと、なんとめんどくさい・・・!そしてキラッとした目をした先輩か後輩か当時の彼氏の言葉をやっと思い出したのに、感動という形で思い出せずに本当に申し訳ない!)

でも、諦めじゃない。
この苦しみの楽しさは、私のものなのだ。
私が長年このことだけを諦めることなく考えて考えて、こんがらがって、糸でできた知恵の輪のようになったこのグチャグチャは、私のものなのだ。
分からんでいい。分かってたまるか。

私も親しい誰かのことを理解したいと思ったりするが、みんな、大なり小なり、そんな「分かってよ」と「分かってたまるか」があるのかもしれない。

そう思うと、少し、「一緒ね」と微笑みたくなる。

分かってたまるかーい!と思いつつ、共感してもらえたら心底嬉しいし、自分のことを話すことも、誰かの話を聞くことも、とても楽しい。
ただ、深く共感してもらう必要はないのだ。
自分でもよく分からない本音も、分かってほしいけど分かってくれなくていい。
自分でもよく分からない腹の底も、知ってほしいけど知ってもらえなくていい。
強がりじゃない
私の大事な「分かってよ」と「分かってたまるか」なのだ。

「人を信用して傷ついたことがあるのでは?」
「警戒心が強いからでは?」
「幼少期に何かトラウマがあるのでは?」

時に必死で自分を掘り起こして自分を全解放しなくてはいけないような気持ちにもなるが、

そりゃ誰かを信用して傷ついたこともあるし、信用させて傷つけたこともある。
そりゃ思春期に「珍念(ちんねん)」と名乗る人物から不幸の手紙が届いたら、警戒心も強くなるだろう。
幼少期のトラウマなんか、腐るほどあるさ。

よく分からないけど、よくある理由づけや問いは、全部当たっているし、その通りだ。

ただ、私の「分かってよ」と「分かってたまるか」だけは当てないでほしい。当たってたまるか。
大事に大事にこんがらがらせては、紐解いている途中なのだから。

夫婦関係も、育児も、仕事も、
私はいつも「分かってよ」と「分かってたまるか」を行ったり来たりだ。

そしてそんな私を見て夫は「めんどくさくて、困ったね」と笑う。

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