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学校に行く?行かない?(まちの不思議 おもしろ探究日記 #18)

(本記事は雑誌『社会教育』2023年12月号に掲載された記事を転載しています)

朝7時。三人の息子たちに順番に声をかけて、起こしていく。今日は誰が学校に行けて、誰が行けないのだろうか。遅刻しないで行けるだろうか。何時間目までいられるだろうか。一人で行けるだろうか。一人で帰って来られるだろうか。

7時半。なかなか起きてこない子たちに、「そろそろ遅刻になるよ」と声をかける。起きていても、なかなか動き出せない時もある。朝の支度をしながら、休もうかどうしようか悩んでいる時もある。朝ごはんを食べるように促して、私は今日一日の過ごし方を考える。

学校に行かない子がいるなら、今日の予定はどうしようか。人と会う予定は変更しようか、一緒に連れて行こうか、留守番していてもらおうか、実家に行ってもらおうか。今日は私が一緒にいた方がいいのだろうか、逆にいない方がいいのだろうか。自分で勉強できるだろうか、できないだろうか。お昼ご飯はどうしようか。様子を見ながら、私の予定と合わせていろいろと頭を巡らせていく。

8時。行ける子が学校に行き出す。必要に応じて私も学校まで付き添う。休む子の学校にはそろそろ連絡を入れないといけない。今月はもう何日休んでいるのだろうか。そろそろ先生から直接連絡がくる頃だ。少し気が重たくなる。

8時半。学校が始まる時間になり、今日の子どもたちの過ごし方が決まっていく。各所に必要な連絡を入れて、一日が始まる。
これが、我が家の毎朝の日課である。

学校に行くのか行かないのかを決めるのは子どもたちだ。学校側の事情や、私の予定によって調整をお願いすることもあるが、今日一日をどうやって過ごすかは、最後は子どもたちが決めている。そのため、毎日行く時期もあれば、週の半分も行かない時期もある。完全に数ヶ月お休みする時期もある。
「不登校」三十万人と言われるが、おそらくその中には入らない。かといって、学校に行きづらさを感じていないわけでもない。
それが我が家の息子たちである。

「学校に行きたくない」

四年前、初めて次男が「学校に行きたくない」と言い出した時は、こうはいかなかった。
とにかく学校に行ってほしい。私にも予定があるし、学校に行きさえすればなんとかなる。そう思って、励まして励まして学校まで連れて行った。しかし、学校についても車から降りず、門のところで大泣きして座り込んで、頑として行こうとはしなかった。先生が呼びに来てくれて行けた日もあったが、気持ちが整うまで一時間以上待った日もあり、そのまま家に戻った日もあった。

なんで行きたくないのかを聞いても、はっきりした言葉にはならない。
「給食を食べたくない」と言われ、強い偏食もあるためお弁当を持たせるようにしてみても、やっぱり行きたがらない。苦手な授業は別の教室にいさせてもらうとか、保健室で好きなことをして過ごすとか、いろんな過ごし方を提案してみてもやっぱり行きたがらない。
あれこれと理由をあげても的を射ることはなく、本人も言葉にできない行きづらさがあるのだろうと思うことしかできなかった。

一方で、子どもが学校に行かないと、私の予定はどんどんとつぶれていく。基本的には家で仕事をしているが、仕事の打ち合わせで人と会う事もあるし、一人でゆっくり過ごしたい時もあるし、完全に仕事に集中したい時もある。その予定がすべて狂っていくことに、どうしてもイライラが募ってしまい、良くないとわかっていても、「あなたが休んでいると、私が私のやりたいことをできない!」と大声を出してしまった日もあった。
それを聞いた次男は、「ママにはママのやりたいことをやってほしい。でも、学校にはどうしても行きたくない。」と泣いた。どうにもならない葛藤を親子で抱えるしかなかった。

しかし、そうやってお互いの気持ちをぶつけあってからは、一日をどう過ごすのか、相談をして決めることができるようになった。
今日はどうしても私の予定があるから、短時間だけでも留守番をしていてもらうとか、その日だけは学校や他の居場所に行ってもらうとか、午前中で迎えに行くとか、本人の調子と私の予定とを合わせて調整できるようになっていった。
そうこうしている内に、安心して過ごせる時間も増えてきて、少しなら学校に行ってみようかなとなり、行ったり行かなかったりしながら、最近は学校で過ごすことを選んで決めている日が多くなっている。

学校というパッケージを解体してみる

学校には、勉強に、行事に、運動、食事、趣味、自己表現、友だち、青春、そのすべてがフルパッケージで用意されている。
しかし、あまりにそのパッケージが出来上がりすぎていて、「どう一日を過ごしたいのか」ということが入りこむ余地はほとんどない。
そのパッケージをそのまま受け取れる時はいいが、そうではない時もある。そんな時は、一度解体してみて、まわりと相談しながら必要な要素を集めて組み立てていってもいいのではないだろうか。

ホームスクーリングでもいい。フリースクールでもいい。学校の授業でもいい。YouTubeでもいい。塾でもいい。他の居場所でもいい。何もしない時間があってもいい。学校の友だちと遊んでもいい。オンライン上の友だちと遊んでもいい。同年代に限ることもなく、誰かと何かをやっていこうとする中で、社会性は育っていく。
社会には、たくさんの学びの機会があり、その組み合わせは無限大に存在する。

学校に行くか行かないか、が問題なのではない。
本人の学びを、生活を、本人の気持ちとまわりの都合とを調整しながら、どうやって組み立てて決めていくのか。そして、それができる環境をどう整えていくのか、が問題なのである。

私のように家で仕事をしていると調整はしやすいが、子どもの行きしぶりに対応するために、働き方を変えたり退職をした友人もいる。
一方で、働き方を変えられずに悩む友人もいる。

保護者が、学校が、行政が、地域が、子どもたちの一日のためにできることは何なのだろうか。
誰がどうコーディネートしていけるといいのだろうか。

その答えはまだ見えずにいる。


▼ 雑誌『社会教育』

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