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対話疲れのから騒ぎ(まちの不思議 おもしろ探究日記 #22)

(本記事は雑誌『社会教育』2024年4月号に掲載された記事を転載しています)

今年はとても疲れた一年だった。
PTA連合会に改革の大波が押し寄せ、組織の存在意義や望ましいつながり方を検討して、これからの在り方について結論を出していかないといけない年であった。それぞれの学校のPTAも様々な状況を抱えている上に、集まっているメンバーもそれぞれの背景を抱えている。仕事観のような、活動の進め方や捉え方も大きく異なる中、その違いがうまく作用することもあったが、大きなすれ違いが生まれることの方が多かった。
私は副会長という立場で、会の円滑な運営を役目として担っていたのだが、この運営方法についてもまた様々な考え方があり、一年を通してまとまることはなかった。コミュニケーションの助けになればと、グループウェアや共有ファイル等も導入したが、オンとオフの使い分けがうまくいかなかったり、オンライン上での言葉がどんどんと暴走してしまうこともあり、必要以上に傷つけ合い、活動を離れることになったメンバーも出てしまった。

昨年、シェアリング・ラーニング主催で「半径五メートルのミンシュシュギ」をテーマに場を開いた時に、自分たちのルールを自分たちで決めて、自分たちなりの活動をつくっていくということが民主主義の基本であり、それには相手を思いやる言葉選び、わかりやすく言うと「いいね」や「ありがとう」といった言葉が大事だという話があった。それによって、一人ひとりの主体性が引き出されていくことが第一歩であり、PTAもその大事な機会なのだと、その心持ちで運営にあたっていた。
しかし、効率重視・負担軽減を中心とした昨今のPTA改革の流れの中では、最短距離を走り抜けたいという声も多く、それぞれの価値観を確認し合って、そこから活動をつくりあげていこうという進め方は、負担と時間ばかりがかかって答えを出せないため意味がない、という声もあった。また、あくまでも代表として参加しているだけなので、個人としての価値観のやり取りは望まない声もあり、一年という短い期間の中で結論を出すために、強大なリーダーシップを期待する声もあった。

改めて、全員の前提条件が整っていない中での「対話」の難しさを実感した一年でもあった。むしろ、この一年は対話の条件を整えるための一年だったのかもしれない。今の組織はいったん閉じて、再度新しくつながり直していくことになったのだが、これからの方が、対話が必要な場面がたくさんあり、大変な日々が待っているとも言える。
それにしても本当に疲れた一年だった。傷だらけになりながらなんとか決断をしたという状態ではあるが、みんながみんなでがんばった一年であったと本当に思う。

ちゃんと傷つくということ

二月二十二日、国分寺の胡桃堂喫茶店で、「もう対話はいらない?!~対話疲れのから騒ぎ~」というイベントを、シェアリング・ラーニング主催で開催した。哲学対話の第一人者である東大教授の梶谷真司さんと、胡桃堂喫茶店の店主であり、「朝モヤ」という対話の場を十二年以上もまちなかで開催してきた影山知明さんのお二人にゲストに来ていただいて、私たちのボヤキをネタにみんなでから騒ぎして笑ってしまおうという企画だ。
同じように日々に疲れを感じていた仲間たちとぼやいていたところから生まれたこの企画は、告知開始二日で即満席となり、翌日にはキャンセル待ちまで満席になるという人気ぶりであった。
みんな「対話」に疲れている。いや、対話のまわりにある「何か」に疲れている。この社会全体に蔓延する疲れは、一体何なのだろうか。

当日は、私たちのボヤキから始まり、対話の場での一期一会をどう味わうかといった話や、何かしらの答えを出さないといけないグループにおける対話の難しさ、さらには対話をしたくない人や、自分の利益のために場をコントロールしようとする人との付き合い方などと話が広がった。そんな中、梶谷さんがおっしゃった「哲学対話の場では、ちゃんと傷つくことができる。やりやすい。」といった言葉で、その場の空気はきゅっと引き締まった。
できることなら、私は傷つきたくないし、人を傷つけたくもない。しかし、いろんな価値観がある中で、共に生きていこうとすると、どうやっても価値観のぶつかり合いで傷つけ合うことは起きてしまう。時間に限りがあったり、抜け出すことができない関係性の中だったり、利害関係があるとなおさらである。
傷つけ合う事は疲れる。しかし、そのことを、ちゃんと受け止めることが大事なのだ。これまで自分が傷ついてきたことも、傷つけてきたことも、誤魔化して無かったことにするのではなくて、言葉にして傷として受け止める。そうやって自分や相手を受け止めていくから、関係が育ち、前に進んで行けるようになる。

PTAの活動の中でも、「傷つけ合ってでも、本音をぶつけ合わないといけない」という人もいて、それはすごく理解できる一方、それをそのまま生の言葉でぶつけ合ってしまった結果、傷が深くなってしまった部分もあった。もう少し違う形で、それこそ「対話」でぶつけ合う事が出来ていれば、よかったのだろうか。
一方で、対話は万能薬ではないという話も出た。関係性がない中で対話をしようとするよりは、レクリエーションのようなものの方がいい事もある。「対話という前に、相手その人を存在として受け止めるという事があるのだと思う」と、まちなかでたくさんの人の言葉を受け止めてきた影山さんは言う。相手に興味を持って、心を寄せていく。まずはそこから始めていくということなのかもしれない。

改めて、対話とは何なのだろうか。ただ、「対話疲れ」だなんだとは言うものの、争ったり傷つけ合ったりしてしまうような事について、自分も相手も受け止めて、話し合って答えを出していく。そんな、一方的な力による決断ではない答えの出し方を、私は諦めたくはない。
これは、どうやっても疲れる旅路なのである。だから、時には笑ってから騒ぎして、そしてまた前を向いて進んでいけばいい。


会場に用意した、から騒ぎ用のうちわ

▼胡桃堂喫茶店

▼梶谷先生の著作

▼ 雑誌『社会教育』


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