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「アドルフに告ぐ」読了と「仮面ライダーBLACK SUN」のラストについて|diary:2024-05-01

手塚治虫「アドルフに告ぐ」を読んだ。手塚治虫という人が漫画の神と呼ばれる片鱗を味わったと思う。
もっぱら古典であり記号的な技法の確立者、「まんが道」で藤子不二雄に部屋を譲る描写から、新漫画党のメンバーより一世代上というイメージを持っていた。むしろ感性は鋭敏であり、この時代に読んでも色褪せないメッセージとリアリティ、緻密な構成でディテールを詰め込んだものを描かれる人とは想像していなかったのだ。

なんで今読もうと思ったのかは良く覚えていない。オッペンハイマーを観た以降に読み進めていたので、おそらく第二次大戦、ナチス関連でなにか読もうと思って、存在を思い出し手に取ったのだろう。
高校生の頃に読んだ、小学館のマンガ誌「IKKI」に掲載されていた「金魚屋古書店」という漫画で「アドルフに告ぐ」にまつわるエピソードがあり、二人のアドルフの名を持つ少年とアドルフ・ヒットラーを巡る物語なのだということだけ、記憶していた。

さてまず読んでみて驚いたのは、主人公格として最も存在感を示すのはどちらのアドルフでもなく、日本人「峠 草平」であったことだ。この男が数奇な運命で二人のアドルフや、キーアイテムであるヒットラーの出生証明と関わっていく。特高やゲシュタポ、SSなどから狙われては捕まり拷問を受けるなどハードボイルドな展開がありつつ、ゆく先々で女性とねんごろになるのも面白い。

モテる

大学で特に親交があった友人からよく「手塚・藤子を読め」とアドバイスを受けていたのを思い出す。もっと早く彼の言葉に従い、この啓発に富んだ作品に触れていたらと思ったし、彼の女性関係の充実、世界を股にかける仕事振りが峠草平にオーバーラップもした。そういえば彼はドイツでも多く仕事している。まさに峠草平!
友人は父が手塚・藤子のファンで、家に全集がある環境で育ったそうである。対して私の父は手塚治虫嫌いだった。実際今になって読むまで私も、父の影響か手塚作品に少しアレルギーがあった。うう!もったいない。

1、2巻のサスペンス・クライムアクション的な展開は終始ワクワクして読んでいたが、3巻以降戦争とユダヤ人弾圧、虐殺が激化する中で主人公アドルフ・カウフマンがナチズムに共鳴していき狂気に飲まれ、最後にはすべてが崩壊し嘆く様には涙した。

ウウ・・・

しかしここで終わらないのがこの作品の凄さで、アドルフ・カウフマンは元の、母を愛しユダヤ人の親友との友情を何より大切にした子供に戻ることはないのだ。ナチス残党狩りに命を追われ、パレスチナ解放戦線に身を寄せる。そして念願の国土を得、近隣パレスチナに対し加害の側に回ったユダヤ人たち、イスラエル軍にはその親友にしてもう一人のアドルフ、アドルフ・カミルの姿が。(現在のガザ侵攻に地続きの話ともとれるのだ)

そんな中カウフマンはパレスチナ解放戦線で妻と子を設け、若き日のヒットラー・ユーゲントで受けた教育について話す。そこで妻はそれを、自分の子にも受けさせたらよいのではと言うのだ。ユダヤ人を殺すゲリラとして英才教育を、自分の娘にも、と言うのだ。下述の理由もあってこのシーンは一番の衝撃であった。

利発で気立ての良い妻が「殺すことくらい覚えさせなくちゃ」

最後、戦火の中で妻と娘の命をアドルフ・カミルに絶たれ激情したカウフマンは、カミルに対して決闘を申し込む。カウフマンはドイツSSだった頃にカミルの父を殺害しており、またカミルの妻を強姦していた。互いの復讐心は等しく家族を奪われたものだったが、カウフマンはこちらの恨みに比べれば、自分の奪った命など取るに足らぬと宣う。結局あれからナチスの教育で植え付けられた人格の歪みは解けぬままなのだ。

屁とも思わん

この運命に弄ばれた親友同士の決闘は、「仮面ライダーBLACK」のブラックとシャドームーンを想起させた。お互いが信じた正義、組織によって教え込まれた正義とそれに抗うために生まれた正義はどちらも単なる暴力となって振りかざされる。そして「アドルフに告ぐ」という作品で描かれた正義はナチスだけが特殊なのではなく、日本でも、ユダヤでも、正義は暴力を振るい、振るわせるための口実、正当化させるための手段であった。

近年、仮面ライダーBLACKは「仮面ライダーBLACK SUN」というタイトルでリブートされた。「怪人」が「外人」のメタファとして存在し、差別を受ける世界で、ブラックとシャドームーンは本編同様に決闘する。ブラックに付き従い、差別を憎み平和を説いたヒロインは暴力に翻弄されながらも気丈に生き延び、最後はゲリラを組織し幼い子供を戦闘員として育て始める描写で終わる。このエンディングと、先のカウフマンの妻とのやり取りが、結びついたのだ。

私は仮面ライダーBLACK SUNを、特撮好きの友人から「ひどい作品だった」と何度も聞かされ、故に観た。 そのナイーブに、ノイローゼ気味に語る様子に、おそらくこの作品には彼のアイデンティティを脅かす物があったのだろうなと、それを期待して観た。実際それは突き止められたと感じた。彼が特撮に傾倒する中で形成された正義への信奉を特撮が、よりによって彼の幼少の原体験であるライダーのリブートが、その欺瞞を暴かんとしたのだと。

そして仮面ライダーBLACK SUNのラストシーンの考察は、「アドルフに告ぐ」読了によって補完された。

ゲリラの少年兵教育シーンは、
毎週怪人を殺す仮面ライダーという番組を、テレビ放映で子供が観ている様を暗喩しているのではないのか。
暴力を描くために存在する正義、正義の成立のために存在する悪の組織によって構成された教材。仮面ライダーのみならず、「スーパー戦隊」「プリキュア」もまた、毎週怪人を殺す。日曜日の朝に巧妙にエンターテイメントに仕立てられた、三本立ての正義の名の元の処刑を見せられることは、現実のゲリラの少年兵教育と知らず知らずに地続きである可能性を持つのではないか、と。

そんな皮肉なのだと、私は受け止めている。

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