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残酷な季節と長い思春期

春が訪れた。

詳しくは前回の記事を読んで欲しいが、今年のお花見には特に思い入れがあった。

https://note.mu/reisen_arisu/n/n1bdf3af16536

桜の開花情報を聞きすぐ鎌倉に撮影に向かう。この時期の鎌倉は観光客も多く、江ノ電に揺られながら巡る各駅での景色は日常からかけ離れたものだった。時がゆったりと流れていた。

このまま春の風に乗って消えてしまいたいな、と思う。


春は不思議な季節だ。

とても穏やかな気候や日々の移ろいの中で出会いや別れという大きな出来事が散りばめられている。思い出の一ページに刻まれやすい季節だが、春はそんなに綺麗なものではない。

春は美しくて儚くて残酷だ。

桜が咲くのを見て、麗らかな陽射しと春の風を感じて、少しだけ変われる気がする。代わり映えしない鬱々とした人生から抜け出すための一歩を踏み出せる気がする。

元々吹奏楽をやっていた関係で楽器店に通っていた際に聞いた話だが、春になると楽器を始める人が増えるそうだ。これもこの季節特有の心の動きによるものではないのだろうか。変われる気がする。変わりたい。このままじゃ嫌だ。そんな感情が混ざり合い、人はなにかを始めるのだと思う。

私にはその変わるためのなにかがわからない。なにをしても特にできないということも特にできるということもない。人と比べて自慢できるようななにかも持ち合わせていない。工場で量産されたようなありふれた人生をおくり、ベルトコンベアの上で生きる毎日に辟易としている。空っぽで虚しくて、この先きっと何者にもなれない。でもそのレールからはみ出す勇気もない自分に軽く絶望し続ける日々だ。それにすら飽きて、慣れて、気付けばそれが日常になっていた。


人はある程度の歳になれば自分が何者でもないことに気付く日が来ると思う。私の場合はそれが人より少し早くて拗らせてしまっただけだ。春になるとそんな私と一緒だと思っていた人たちが歩き出すのを感じる。傷の舐め合いから卒業していく。そして桜が散り、人々に踏みつけられくすみ始める頃、置いて行かれたことに気が付く。やっとスタートラインに辿り着き辺りを見回してみれば、もう走り出した人たちの背中は見えない。

人はすぐには変われない。生まれてから作り上げてきた人生や人格を崩し再構築するのは容易なことではない。春だから。そんな理由で訪れる感情の揺らぎは初期衝動のようにゴールデンウィークには色褪せてしまう。日中感じていた和らぎは夕暮れに訪れる希死念慮と鬱によってかき消される。

春の陽射しは普段柔らかいベールの中に潜むグロテスクなものを容赦なく表出させる。変わりたいのに変われない。抜け出したいのに抜け出せない。きっかけも掴めないまま、ただその場で足掻き続ける。焦ったように音楽を聴き、文学に溺れ、インターネットの中に溶け込む。とても自由で自堕落な暮らしをしていると思う。私はこれからも変われないまま、同じような社会の片隅で身を寄せ合う人たちの傍に居続ける。いつか大人になり、今の日々を青さとして処理できるのだろうか。今日も窓の外から桜を眺めて答えのない問いを考える。長い思春期は終わらない。

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