土下座のすすめ

人の「価値」には様々な尺度がありますが、例えば年収などで判断されることもあります。交通事故などで死亡した場合の損害賠償額などでもそうですが、生前の収入によって「死亡逸失利益」という考えのもとに損害額が算出されます。その基準にも自賠責基準と裁判基準という二つの算定基準がありますが、自賠責基準は1950年代に定められた自賠法の基準によって算定されます。その基準の見直しは都度行われてきたのだとしても施行年代の古い考えのもと、その算定額は裁判基準のものと比べて低く算出されるようです。そしてそのように損害額が算定される以上、専業主婦は女性労働者の平均年収から算出されるという原則があるようですが、一般的には女性は男性と比べて低く算出されるという現状があるようです。

数字として算出可能な「価値(遺失利益)」だけを取り扱うならそうならざるを得ないのかもしれません。しかし社会や家庭で女性の果たしている役割を考えると、算出の難しい例えば女性ならではの価値を考え合わせると、男性よりも女性の遺失利益が小さいということには疑念を抱かざるを得ません。伝統的な価値観では一家の大黒柱は夫(男性)ということになりますが、昨今ニートをはじめとする無就業者が増えていることが問題となっており、それらの多くは配偶者(伴侶)を得られていないことからも分かるように、男性が生涯労働に耐えることを可能にする何かがあるのだろうと類推することが出来るわけです。

裁判基準では自賠責基準とは違い、時代の実情に合わせた損害賠償額が算出されるようであり、女性の死亡事故の例(パート主婦)では自賠責基準で一家の大黒柱の場合の凡そ2倍となる5,760万円の損害が認められたケースもあるようです。

【事故で死亡した60代女性について5760万円の損害賠償が認められた事案】

このケースでは死亡逸失利益、死亡慰謝料ともに保険会社の提示よりも大幅に上回る額が認定されており、これには「数字としての算出の難しい逸失利益(価値)」が含まれていると解釈できるのかもしれません。或いはそれが精神的慰謝料に上乗せされているのかもしれません。離婚の訴訟などでは離婚時の慰謝料(財産分与)などでも妻(女性)による家庭内労働による貢献が重視されるようになってきた経緯があり、妻(女性)側が専業主婦であっても所謂「内助の功」によって結婚後に夫婦で作った財産(共有財産)は女性側の取り分が原則半分とされおり、こういった算出は主に民法で規定されているようです。

実際の裁判基準での死亡損害賠償額は職業や年齢にも依りますが1億円、2億円が認められることも珍しくないようであり、そういった基準に基づいて考えるなら、人とは「歩く1億円2億円」とも考えることができるでしょう。そういった高額の賠償額が認められるケースは被害者が収入の多い職業だったり、若かったりする場合のようですが、その逸失利益(価値)がどこに帰属するかと言えばもちろん被害者の家庭(残された妻や子)ということになります。

前置きはそこそこに、一体何が男性の生涯労働を可能にするのか?ということを考えると、当然のことながら女性の果たす役割はとても大きいものがあると言えるでしょう。そのような考えに基づけば女性の価値も数字として表わすなら男性同様に1億2億ということになりますが、男性の場合と違うのはその価値がどこに帰属するのかという問題です。女性が結婚をして家庭に入った場合の死亡遺失利益(価値)は、一見するとその家庭に帰属するように思われるかもしれませんが、男性の生涯労働を可能とする女性ならではの価値(内助の功)は家庭に入って妻となってはじめて発揮されるという性質に鑑みると、女性は生来的に1億2億の価値を持っていると言えるのではないか、ということです。女性は生来的にその価値を持っており、婚前には潜在的に、結婚後は顕在化するということではないか。そしてその価値の帰属する先は社会全体ということになるでしょう。

難しく考えずとも女性は歩く1億2億と見なせるということは、暗い夜道を歩くことは男性には平気でも女性としてはリスクの高いことという事実からも明らかでしょう。現代社会は法による支配が行き届いていますが、歴史時代には女性は連れ去られて有無を言わせず妻とさせられるようなこともあったようですね。以前に見たテレビ番組では中央アジアのどこかの国だったと思いますが、女性が妻を必要とする男性のいる家庭に拉致をされ、その家の中で帽子を被せられると(儀式的意味か)妻となることを了承する意味になるとかで、その家庭では男性の母親や親族の女性などもいましたが皆で挙って拉致してきた女性に帽子を被せようとする様子が映されていました。現代でもまだそういった慣習の残っている地域は地球上のどこかに残されているのかもしれません。拉致された女性は泣きながら拒絶する態度を示していましたが、女性たちは「私たちもずっとそのようにしてきた」のだからと拉致してきた女性を説得しようとしているようでした。

ということで(労働することを前提とした)男性の価値を高い方の1億2億とすると、その価値は男性の親族に帰属することになりますが、女性の価値も同様に1億2億であり、それは社会全体に帰属するという違いがあるでしょう。

という尺度のもとに考えを進めると、人は「歩く1億2億円」と言えるものと思いますが、事故とは違って故意による死亡、つまり殺人をどのように捉えるかです。近年、多くの死亡被害者を出す事件が起きるようになっているわけですが、これが例えば「大阪個室ビデオ店放火事件」のように16名の生命が奪われるような事件が実際に起きていることに鑑みると(多くの場合で)男性は潜在的に数十億円の負債を生じさせ得る存在と言わざるを得ないでしょう。

女性が事件の被害者となるのは性被害であったり恋愛のもつれの果てというケースが多いことからも、女性自身が生来的な価値を持っているからと考えるととても整合的なわけです。「犯罪の影に女あり」とも言われます。女性の性被害についても、とても軽く考えられがちというのが私の意見でして、例えば性被害に遭った女性が自死を選んだ場合、その罪状はどのようなものとなるかです。私の意見としては死亡事故の事例のように将来に見込まれる「逸失利益」の考えが適用されるなら、被害に遭って自死した女性の

「将来産むはずだった子ども」

の数も被害者の数として算出されるべきではないか?そしてその平均を二人とするなら、女性一人を死なせた場合の実態に近い罪の重さは男性三人を死なせる場合と等しくなるのではないか。犠牲者の数が三名というと日本では死刑判決が下るかどうかの一つの基準となる数字であり、女性を死に至らせることが如何に重大な罪であるかです。

死に至らせずとも女性が性加害を加えられることによってどのような悪影響を(将来的に)及ぼすかということも考えられなければならないでしょう。ある人物などは公然と「女性はレイプをされたくらいでは死なない」などと嘯くわけですが、これは非常に悪質な自己弁解ともとれ、つまり「女性をレイプしたうえに鬼畜行為を加えて死なせてしまった」とも受け取れるわけです。もちろん私も女性として生まれてこの世を生きたわけではありませんので実態として被害に遭った女性がどのように思うのか、男性である以上は知りようがないわけですが、実は私はレイプまででなくとも何らかの性被害に遭っていたと思われる女性と交際関係にあったことがあり、その女性が如何に性の部分に敏感になっていたところがあったかを思い出すと、「レイプされただけでは死なない」などという言質が如何に悪質で腹わたの煮えくり返るものかということです。

さて男性の価値の多くは労働力が担保しているということに反論はないものと思います。しかし社会は発展していくもので、科学技術の発展も尽きることのない勢いです。機械化、自動化が進み、これまでに多くの職業が機械に置き換わってきたことは紛れもない事実であり、そして従来は男性しかしないような労働の分野にも女性が進出するようになりました。トラックのハンドルを握る女性を最近はよく見かけるようになりましたが、これもフォークリフトなどによって荷積みの労力が減じられてきたことによるものがあるでしょう。要するに社会が発展していくとともに労働力を担保としていた男性の価値は下がっていく一方ということであり、その点からも生来的な価値を持つと見做せる女性と男性のどちらが社会において「優位」であることが合理的なのか、という問題提起をするものであります。ともすれば戦争における戦場では話は違うのかもしれないが、そういった本質を見ないままに「歪み」を放置する結果、どのような悪影響を社会に及ぼすかということを我々は考えるべきでしょう。

俗的に言うなら女性は家庭へ入ると「夫のものとなる」と表現することが出来るかもしれませんが、それは女性が生来的に持つ価値が「顕在化」したもので、家庭に入らずとも女性はその価値を「潜在的」に持っていることになるでしょう。そしてその価値は社会全体に帰属していると。今後益々社会が発展し、ヒューマノイドなどが実用化された社会では男性の価値はどのようなものになるのかです。極端なことを言うなら男性は社会から遺伝情報しか必要とされなくなる可能性すらあり、そのように考えると社会に主体性をもって存在しているのは男性と女性のどちらなのか?という大いなる疑問が湧くことになるわけです。

私は以前に持っていたツイッターアカウントを削除して現在は見ておりませんが、当時イーロン・マスクなどは「人間製造工場」なる概念を持っていたようであり、それは子宮の人工化も実現可能ではないかといった発想のもとにイラストまで作っていたようです。欧米社会では古くは中世のパリなどで子捨てが横行したように、現代の白人社会でも「子を産んで後悔した」という意見を持つ白人女性が一定数いるようであり、我々の活路は「白人とは正反対の道」にこそあるはずです。つまらない型に嵌ったマチズモなど有害でしかないでしょう。まずは女性に土下座をすることをお勧めします。和解しましょう。