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贅沢病とコインランドリー

多感な中学2年生の日々を奈良の片田舎で、椎名林檎の音楽と共に過ごした私は、いつか東京で一人暮らしするなら丸の内線沿いと決めていた。

関西で出会った東京出身の彼氏が転職することになったことがきっかけの安易な上京だったけれど、大学を卒業してフリーランスだった私は色々なツテを頼って業務委託の仕事をとりつけながら生きていくということで、それなりにビッグなプロジェクトだった。当時24歳、守ってくれる会社も後ろ盾もない上京にはそれなりに覚悟も必要で、だけどまあ死ぬことはないだろうという楽観的な東京行き。

忘れもしない初めて借りた部屋は、丸ノ内線・中野坂上駅から徒歩7分ほどの1Kだった。全く土地勘がなかったので、同じタイミングで上京が決まっていた知人にフリーの不動産屋を紹介してもらって良さそうな物件に目星をつけ、すでに東京への引っ越しを済ませていた当時の彼氏に内見を託した。

(なお、私はこの半年後に当時の彼氏と別れ、それから更に3年後、この不動産屋を紹介してくれた ”知人” と結婚することになる… という話はまたいつか書く)

そんなわけで始まった新生活、4月。東京は暖かくとても良い季節だった。憧れの丸の内線沿い、オートロック、風呂トイレ別。築年数浅めなら一階でもいいやと選んだ、約6畳の可もなく不可もない家賃7.5万円の部屋で私の東京生活が始まった。NITORIで買った安いベッドと薄っぺらく頼りないカーテンが華やかさとは果てしなく無縁で、いかにもはじめての一人暮らしって感じだった。

当時はよくコインランドリーに通った。マンションの隣にあった小さな白い空間で、見よう見真似で大きなドラム式洗濯機を回す。洗濯物を入れてきた袋を使用中の洗濯機のノブに提げておくというお決まりのルールはそこで学んだ。小銭が足りないときはコインランドリーの前にある自販機でコーラを買って飲んだり、外の駐車場で猫が昼寝するのを眺めたりしながら洗濯が終わるのを待った。すっぴんだし、適当な服だし、節約のために一回にまわす洗濯物の量が多くてぐわんぐわんと激しい音がしているし。東京の空の下、なんとなくみすぼらしさを感じる。そんなときいつも、実家に住んでいた頃の自分を思い出していた。

今となっては「なんで?」とすごく不思議に思うのだけど、実家に住んでいた頃の私は、こういう貧乏くさく生活感のある行為がすべて、わりと恥ずかしいことだと思っていた。

コンビニ弁当を買って深夜に一人で食べること、閉店間際の見切り品となったお惣菜を買うこと、100円均一で食器を買うこと、トイレットペーパーをシングルに格下げすること、バターじゃなくてマーガリンを買うこと、コインランドリーで洗濯物をすること。

これらはどれも、万が一誰かに見られたら言い訳しなきゃいけないようなみっともないこと。そこそこ豊かな実家で何不自由なく生きていた私の地味な贅沢病だったのだろうと思う。実家はいつだってぬくぬくと温かい電気が灯り、お母さんが作ってくれる栄養満点な美味しいご飯があった。お風呂はいつも清潔で、服を脱いで所定の場所に置いておけば、きちんとアイロンが掛けられた美しい洋服が魔法のように部屋に戻ってくるし、冷蔵庫のバターはいつもちょっと良いメーカーのものだった。

それは一ヶ月の生活費がいくらぐらいかなんてもちろん考えたこともない日々。両親の長年の努力によって確立された豊かな生活水準こそが自分の最低基準の生活、という感じ。潔癖症なわけではないけれど、下宿していた友達の家の小さなユニットバスでシャワーを借りるのに抵抗があった。大学時代にありがちな安いたこ焼き粉で作ったたこ焼きや、業務スーパーで買った激安缶チューハイの味も苦手だった。

中野坂上のコインランドリーで洗濯物ができあがるのを待ちながら、かつての贅沢病だった自分に想いを馳せていた。誰がどう見ても貧乏なくせに、業務スーパーで見たこともないメーカーの激安商品を買うことにもいちいち引いている私は何なんだろう? マクドナルドの100円コーヒーで満足できない私は何なんだろう? って。

そうは言っても住めば都。季節が変わり、上京から月日が経つに連れて、私もそうした生活感のある日々に慣れてきた。オーブンがないので100均で買った魚焼き用の網でトーストを焼くようになったり、スーパーで見切り品が出る時間帯を把握するようになったりした。そして上京して2年目ぐらいで今の旦那さんと付き合いはじめ、初めて彼の家に遊びに行った。

当時の彼の生活は私よりもさらに厳しく、マンションの半地下みたいなところにある小さな狭い部屋に住んでいた。日差しが入らず風通しが悪いせいで湿気もひどく、靴箱の中の靴に平気でカビが生える部屋だった。だけど、同じく貧乏生活を過ごしていた私は張り切っていた。彼の家の近くのスーパーで見切り品を買い、小さなキッチンを駆使して何品も料理を作り、狭すぎる部屋のなかで「ちょうどいい場所があったわ」とドアの角やカーテンレール、折りたたみベッドのフレームにてきぱきと洗濯物を干したりした。

私、自分の中野坂上の1Kを経ずに実家からこの場所へ招かれていたら、間違いなく引いていたと思う。こんな生活は私には絶対に無理、コンロが一つしかないなんて、狭いユニットバスで洗濯物を干すなんて、と悪いところばかりに目がいって、その貧乏くさい生活が相手の欠点そのものみたいに感じて、何にも発展せずにいたのでは? としみじみ思う。

自分が親に与えてもらった環境で得た価値観、自分の実力で得たわけではない生活水準って、ときに残酷だ。東京で一人暮らしがしたいと親に告げたとき「用事があるときは大阪から通えばええんちゃうの?」とほんのり反対された記憶もある。それは上京の動機が彼氏の東京行きだったということも原因ではあるのだろうけど、それにしてもなぜ? なぜ反対した? あの贅沢病のまま、貧乏くさい経験をせずに大人になってたら、私結構やばかったんじゃない? 

そしていま、上京してから7年が経った2019年の終わり。
半地下に住んでいた旦那とは、子供の学区を考えて住む場所を選び、贅沢ではないけれどそれなりに温かく気持ち良い暮らしができるようになった。お皿や家具だってこだわりを持って選ぶし、台所のコンロは3口。お風呂には追い焚き機能もあるし、トイレットペーパーだってダブルだ。玄関の靴だってカビない。とても子供っぽいけれど、そんな生活をちゃんと自分たちで働いて精一杯、維持していることを誇らしく思うことも忘れない。

下積み時代なんて言うと大げさかもしれないけれど、街でコインランドリーを見かけるたびに思い出す。ぬくぬくの実家から中野坂上の小さな部屋で足元から冷えていた毎日のこと。自分にとっての等身大の生活を手に入れることに向き合ったタフな日々のこと。そして、可愛い子にはやっぱり旅をさせよ、ってこと。

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