社会変革のパラドックス

はじめに

保守とリベラルの対立というのは政治的価値観における基本的な対立図式である。この保守とリベラルの対立には面白いパラドックス(逆説:一見矛盾するような状態)が隠されているので、解説してみる。

なお、これはあくまでも論理を使ったお遊びであり、現実の保守とリベラルの関係を正確に表しているとは限らない。とはいえ、現実を理解する上での新たな視点を提供してくれるものである。

定義

ここでは一般的な保守・リベラルの定義にかかわらず、次のように定義する。

保守:極力社会変革を起こさないようにしようとする立場。急激な社会の変化を危険視する。ただし、全く社会が変わってはいけないというわけではなく、人為的に手を加えなくても社会は緩やかに変化していくと考える。
リベラル:積極的に社会変革を起こそうとする立場。旧弊や因習など、社会には変化を妨げる抵抗が数多くあり、人為的に介入することでようやく社会は緩やかに変化していくと考える。

第一のパラドックス

上記の定義より、保守は次のように考える。

保守:社会はそもそも自然と変化していくものなので、無理に手を加えるべきではない。リベラルの考えは間違っている。

また、リベラルは次のように考える。

リベラル:社会はそもそも変化しにくいものなので、積極的に手を加えていかなければならない。保守の考えは間違っている。

このように考える保守とリベラルが拮抗する社会では、実際には次のようなことが起こる。

保守とリベラルが拮抗する社会で起こること:社会を変えまいとする人たちと変えようとする人たちがせめぎ合った結果、社会は緩やかに変化していく。

この結果には保守もリベラルも満足である。保守にとっては、変化を起こすまいと抵抗した結果として、社会の変化を緩やかに留めることができた。リベラルにとっては、変化を起こそうと運動した結果、緩やかに社会を変革することができた。

このとき、保守の「人為的に介入しなくても社会は緩やかに変化する」という主張も、リベラルの「人為的に介入することでようやく社会は緩やかに変化する」という主張も、どちらも(少なくとも当人たちにとっては)真である。

両者:ほら、我々の言い分が正しかったじゃないか!

それでは、保守だけの社会ではどうなるか。

保守だけの社会で起こること:社会を変えまいとする人たちしかいないため、社会は全く変化せず停滞し続ける。

このとき、保守の「人為的に介入しなくても社会は緩やかに変化する」という主張は偽であり、リベラルの「人為的に介入しなければ社会は変化しない」という主張は真である。

また、リベラルだけの社会ではどうなるか。

リベラルだけの社会で起こること:社会を変えようとする人たちしかいないため、社会は急激に変動し、混乱がもたらされる。

このとき、リベラルの「人為的に介入することで社会は緩やかに変化する」という主張は偽であり、保守の「人為的に介入すると社会が急激に変化してしまう」という主張は真である。

つまり、保守が言っていることもリベラルが言っていることも、それが真であると言えるのは反対勢力が存在する状況においてであり、もしどちらかの勢力が圧倒的多数になってしまうと、その多数派の言説は偽となってしまう。これが第一のパラドックスである。

社会変革のパラドックス:保守とリベラルが拮抗する社会では、保守の「人為的に介入しなくても社会は緩やかに変化する」という主張も、リベラルの「人為的に介入することでようやく社会は緩やかに変化する」という主張もいずれも真であるが、保守だけ、リベラルだけの社会では多数派の主張は偽となってしまう。

結局のところ、保守もリベラルも、「我々の考えだけが正しく、反対勢力の考えは間違っている」と主張するが、その正しさを保証しているのは、実は反対勢力の存在である。つまり保守とリベラルは相互補完関係にあるといえる。

保守とリベラルは「仲良く喧嘩」しているのである。

第二のパラドックス

第一のパラドックスの視点を得た者(メタ視点の観察者)は、次のように思考する。

メタ視点の観察者:なるほど社会は保守とリベラルのせめぎ合いによって緩やかに変化していくのだから、中立の立場でその変化を見守っていれば、社会は落ち着くところに落ち着くだろう。

これは全くもって正しい認識のはずである。ただし、メタ視点の観察者が少数に止まっている限りは。もしも、全ての人々がこのようなメタ視点の観察者であった場合、どうなるだろうか。

全員:さあ早く、保守とリベラルは議論を始めてくれ!
全員:……。

これが第二のパラドックスである。

観察者のパラドックス:社会は保守とリベラルのせめぎ合いによって緩やかに変化するという認識の者が増えると、保守もリベラルもいなくなってしまい、せめぎ合い自体が消滅してしまう。

解決策

第二のパラドックスを避けるためには、メタ視点を持ちつつもプレイヤーであり続けることが必要である。

一つの方法は、第一のパラドックスを認識しつつも、保守あるいはリベラルを演じ続けることである。劣勢な方に付くという「灰色の魔女カーラ」的な立ち振る舞いをするのも良いだろう。

もう一つの方法は、保守でもリベラルでもない立場のプレイヤーとなることである。例えば、社会を変革した場合のメリットとデメリットを精密に予測した上で賛否を決めるという立場。あるいは、最初に小さな規模で変革を実践した上で、問題が起こらなければ拡大するという立場。

なお、メタ視点を持ったプレイヤーには、悪意のプレイヤーもいる。政策を我田引水して利益をかすめ取る、いわゆるレントシーカーがまさにこのタイプだろう。こうした悪意のプレイヤーに対抗するためには、私たちはまず第一のパラドックスの存在を認知した上で、メタ視点を持った善意のプレイヤーとなる必要がある。

おわりに

およそパラドックスというものには、大抵どこかに論理の穴があるものである。この記事の二つのパラドックスにも論理構成が雑なところが多々あるので、ぜひ探してみてほしい。

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