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近江の土器と日本海ルート

noteのホーム画面では【フォロー中】の方ぐらいしかチェックしていなかったのですが、【あなたへのおすすめ】を何気なく見て、「これは便利!」と思うことがありました。
なんと、読んでみたいと思わせる内容の記事が、「古代史」や「邪馬台国」など、キーワードごとに紹介されていたんですね!
(今ごろ気づきました…w)

その「卑弥呼」というキーワードで見つけたのが、
🌈フランク・ロイド💖フォロバ100✨さんの↓記事。

実は私も、ちょうどこんな記事を書こうとしていたところでした。

【もう10年も前のことですが、韓国・金海(キメ)市の貝塚から近江の土器が見つかったというニュースがありました。
金海市は韓国第二の都市・釜山に隣接し、古代から日本と朝鮮半島を結ぶ交通の要衝として栄えた都市です。
近江の土器がどうやって海を渡り、朝鮮半島まで辿り着いたのか、興味がそそられます。

滋賀県は海に面していませんが、そのかわりに日本一の湖・琵琶湖があります。というより、琵琶湖の周りをぐるりと囲んで淡海(近江)国が存在しているといったほうが正しいでしょう。
古代から琵琶湖に注ぐ大小さまざまな河川の周りで発達した稲作や、湖がもたらす豊かな水産資源に恵まれた近江。
他の地域との交易も湖上交通を利用して盛んに行われ、東西の結節点としての役割を果たしてきたこともよく知られてます。

ところで皆さんは、兵庫県豊岡市出石(いずし)町にある袴狭(はかざ)遺跡をご存知でしょうか。

弥生時代後期から古墳時代前期にかけての遺跡ですが、ここで出土した木製品に描かれていた線刻画がすごいんです。
長さ約197.3センチ、幅16.2センチの長い板に、大小十六隻もの船が描かれています。
準構造船という丸木舟より大型の船で、外洋を渡ることもできます。
このことから、大船団を組んで海を越えていったと考えられています。】

この先は🌈フランク・ロイド💖フォロバ100✨さんの記事からの抜粋です。
「すなわち朝鮮半島から日本に帰るには、多大な危険を冒してまで九州をめざすより、山陰をめざすほうがはるかに楽で、自然に到着することができるのです。鉄と翡翠の交易のために朝鮮半島からやってきた船も、山陰から日本海を進めば、翡翠の産地・糸魚川に容易にたどりつきます。実際に、古代にはこうした山陰沖から日本海を通る「翡翠の道」「鉄の道」というべき交易路があったと考えられています(図「交易路[翡翠の道][鉄の道]」)。」

つまり、対馬海流は古代の航海者にとって、じつは非常に利用価値の高い海流だったということです。
航海技術の未発達な古代の日本では、この海流が果たしていた役割は、かなり大きかったのでしょう。
そして大陸との交流をたびたび行った邪馬台国の位置を考えるうえでも、この海流の存在は重要ではないかと思うわけです。

この通称「日本海ルート」には、西から順に、
・妻木晩田遺跡(鳥取県大山町)古代出雲の中心地と推定
・青谷上寺地遺跡(鳥取市)100体を越える人骨を発見
・荒神谷遺跡(島根県出雲市)358本の銅剣が出土
・加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)39個の銅鐸が出土
などの巨大遺跡が分布しています。
さらに京都丹後地方には「丹後王国」とも称せられる地域国家が栄えていたことも分かっています。

これら古代のクニグニを舟で巡りながら、若狭湾(小浜湾)に上陸すれば、あとは山ひとつ越えるだけで琵琶湖に至ります。
湖北の熊野本遺跡(高島市)から湖に漕ぎ出せば、私が邪馬台国の首都と考える湖南の伊勢遺跡群にも、容易にたどり着けるというわけです。

近江の土器は、この逆コースで、湖どころかはるばる海を渡って朝鮮半島まで届いた、というお話です。



★見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、 tadashi_0229さんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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